ダイアリー

序のことば

われわれの意識の流れは絶え間なくたゆたい、逃げ惑うがごとく、
瞬時もとどまることがありません。

心のうちに流れるイメージや音は、
水の流れがときには勢いにまかせて渦巻き、砕け散り、水飛沫(しぶき)を弾かせ、
水面に浮かんだ白い泡沫をひきずりながら流れてゆくにも似て、捉えどころがありません。

‘無思考’という状態をあえて申し上げれば、そういうこと。

見ていても見えてない、聞こえていても聴いていない。
つまりなんらわたしという主体の自覚に繋がらない、そうしたとりとめのない
仰山なイメージやら音やらを内に抱えながら生きている。
それを我々は生きてると称するわけですが、それが往々にして生きてるという実感にはならない。

それ故にひとは時としてひどく悩んだり苦しんだりするということがあります。
自分が何を見ているやら何を聞いているやら、それで解ったとか知ってると言えるものやら、
皆目自分が解らないといったような心理状態がそれです。

わたくしどものように「精神分析」を生業にするとはすなわち、これら声にならないブツブツの呟きをことばとして聞き取り、
またさんざめく光の渦にかたちを見いだしてゆくことなのでありますから、専門的な耳が、そして専門的な眼が要請されましょう。

人間というものは渾沌カオスに魅了されるものですから、むしろ無思考という状態が自然であるともいえましょう。
そこに敢えて自覚とか意識化を持ち込むことは、やはり抵抗やら違和感を覚えるということがあるやも知れません。
東洋人にとって、それが強いようであります。

ただその一方で、同時に人間というものは、渾沌に抗しながら、どこまでも秩序を求めようとするものであります。

精神分析に日々携わりながら、摩訶不思議というか愉悦に充たされる瞬間とは、実にそうした意識の営みに直截的なかたちで遭遇するときです。
つまり、意識が秩序を、規律を、つまりは辻褄合わせを執拗に追及してとことん飽きない懲りないということなのです。

イギリス人はenlightening啓蒙的ということばが好きであります。無明なるものに一筋の光が照らされるという感覚は、
日本人にしても同じく心響くものがありますが。違いがあるとすればなによりも、思考なるものはことばによって枠づけられ筋立てられる、
それがロゴス(論理/ことわり)であれ、ミュートス(物語り/筋)であれ、そうしたことばへの絶大な信頼であります。
それが西洋的ということになりましょう。

折々に心のうちの喧騒の谷間から、もしくは空虚な暗闇からか、ひょいと
きまぐれに‘ことばの訪れ’があります。おとずれ、それを音信とよんでいるのですが。
大急ぎで手元にある携帯電話を手にとり、取り敢えず書き綴り、
それからパソコンの自分のメールアドレスに送信いたします。
去年の暮れ頃からでしたか、それが習慣になりまして。なかなかどうして
私の携帯から私のパソコンへという、この距離間が結構気に入っております。

それらメールは《独りがたりの記》というファイルに収まっておりまして、
それはなぜかといえば、メールが自分宛て、つまりは独り言ですから。
読み手に解らせることを主たる目的としたものではそもそも無い。
ただまったくの私ごとなのでして。己の茫漠たる生来の気質、雑駁でしか
ない知識、散逸しがちな自己意識に、なんとかそれなりに思考の跡付けを
もくろんでのことでありました。つまり自覚を呼び醒まさせんとする促しで
あります。ですから、いつしかそれは、「こころのスケッチ(心象風景)」とも
「思索ノート」とも呼べるようなものになっているやもしれません。

此の度、それらのうちから差し障りのないものを抜粋して、ホームページ上に掲載することに致しました。
心理臨床家として自己開示するということには職業上の守秘義務に抵触しないという鉄則があり、
それは私個人のプライバシーに付いても同様でありますから、従って文章が読み手への配慮に欠けると
いうことがあるのは否めないということをまずはご了承いただきたい。

それでも尚、なにかしらそこに‘あなた’宛ての‘音信(おとずれ)’の聞かれることがありますならば、
私としては大変嬉しく思います。

(補足:目次メニューのそれぞれ日付のあとに、便宜上キーワードを一つ添えておきましたけれど、
本来どの文にもテーマは無いものとご承知くださいますように。) 

(2009/11/24記)

  • 2012/12/9 「漱石」&夜泣きする子ども

    夜泣きする子どもの声が聞こえる。漆黒の闇の中から執拗に漏れ聞えてくる。夜陰に遠吠えする犬の声も混じっていたかもしれない。ずうっとずうっと遠い彼方、記憶のとばりの陰に巣くったまま・・。
    あれは誰だったのかしら?もしかして私だったのか?シクシクとグズグズと、嗚咽は止まらない。

    私の両親は敗戦直後、舞鶴から秋田の片田舎、つまり母の郷里へと疎開した。私はそこで産まれた。親族の庇護下にあって、本家の敷地に家を建ててもらい、畑をやりながら、我々家族は貧しくとも不自由せずに暮らしていた。我が家は高台にあって、眼下は見渡す限り雀らが群れ飛ぶ金色の稲穂だった。崖下に下りてゆくと、そこには田んぼの畦に沿って小川のせせらぎがあった。母親がそこでよく洗濯をしていた。黒い糸トンボらが川縁の草の葉っぱを相手に戯れていた。時折崖上にあった梨の木から梨の実が落ちてきて、ぽとんぽとんと水面に飛び込み、浮き沈みしながら流されてゆくのだった。その梨を、水の勢いに負けじと競って追いかけてはまんまと両手に掬い取り、一齧りするのも愉しみであった。それに温かな陽気の日には、庭先に茣蓙を敷いてもらって、そこでスカンポの葉などを刻んだりして、おままごと遊びに興じる幼き私がいた。そこには姉も妹も居ただろう。のびやかな日々の暮らし、無邪気な幼児期の思い出ばかりのはずなのに・・。だが、なぜか、なぜだろう。夜泣きする子どもの声が聞こえる。長閑かな田舎の空気に一抹の不穏の気配を感じて・・。

    秋田の里では聞き分けの無い‘荒ける’子どもを‘アラケ(荒け)’と呼び慣わしていた。私は土台‘アラケ’であった。どういう因果か覚えもないが、或る日のこと、ぐずり止まない私にてこずった母親が、お仕置きに暗い納屋の中に私を閉じ込めたことがあったっけ。1つ半年上の利発な姉が泣き喚く私を案じてこっそり納屋から出してくれたっけ。あれは父親が警察予備隊に入り、呉に赴き、幹部候補生としての訓練のため我が家を留守にしていた間のことだったかも知れない。当初私は本荘の伯父宅にしばらく預けられた。すべて周りは善意に溢れていたのだから、ただ可愛がられていれば良かったのだ。だが、私はまるで‘拉致された子ども’のようで、頑なに心を捻れさせ、居心地悪くもただ時をぼんやりとやり過ごしていた。そんな或る時、玄関前で年上の子らが大人用の自転車で遊んでいた。私も面白がって頼んでサドルに乗せてもらった。足元の地面は遥か下に思えて怖かった。そして案の定、バランスを崩して横倒しになった自転車もろとも地面に転げ落ちた。勿論、声を張り上げて大泣きした。だが何故か思い切り泣けたことが痛快だったという覚えがある。それまで堪(こら)えてた涙を一気に流 せたのだから・・。幼い私は混乱していた。

    そして私が5歳になった頃に、ようやく父親が戻り、赴任先が北海道と決まった。その父親に伴い、我々家族は秋田の片田舎を後にした。停車場に向かう途中の道すがら、村人たちが見送ってくれた。隣近所そして親族らの誰彼に涙で別れの挨拶をする母親を尻目に、私はなにやら清々と気の晴れる思いだった。真っ黒い不穏な塊りとはようやく訣別できる、そんな気がしたからだろうか。かくして「夜泣きする子ども」は彼の地に封印された。それ以来、私は後ろを決して振り向かない癖が付いたように思う。

    ところがつい最近、記憶の底に沈めてあったはずの「夜泣きする子ども」が躍り出た。夏目金之助(漱石)である。彼がこの世に生まれ落ちて以来の乳幼児期、貰い乳のために里子に出されたとやら、その後も養子に出されるやら、その境遇たるや一筋縄では行かない。勿論誰かの手から手へと引き取られたものであろうが、後年編纂された年譜やら彼自身の手による小説類からは窺い知れない空隙が散見される。それを埋めるものは唯々‘怒髪天を衝く’ような赤子の泣き叫ぶ声ばかり・・。よく知られている逸話だが、里子に出されたのが古道具屋で、我楽多と一所に小さい笊の中に入れられて夜店に晒されていたんだとか。その彼を不憫と通りがかった姉が見かねて生家に連れて帰ったところ、その夜どうしても寝付かず、とうとう一晩中泣き通しで、お蔭で姉が父親にこっぴどく叱られたんだとか。

    後年になって漱石は自ら、子ども時分は腕白者で、喧嘩がすきでよくアバレ者と叱られたと語っている。(『僕の昔』) 養父母の寵を欲しいままに、「凡ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼は云えば通るとばかり考えるようになった」という具合で、一個の暴君と化した。つまり私の秋田の郷里でいうところの「アラケ」というやつである。養家先で、彼が悪戯をして硯箱の中にあった小刀を持ち出し、それで遊んでいて指を切って大騒ぎしたことがあるとやら、また或る日寝起きに眠い目を擦りながら縁側に出て、そこから小便をしながら途中寝てしまい、縁側に転げ落ち、腰を抜かして立てなくなったとやら。これなどは一種の‘自傷行為’とは言えないか。私が一時貰われた先で自転車から転げ落ちて大泣きした、そんな幼い頃の自分にも重なる。

    養父母が子どもの歓心を得ようと躍起になればなるほど、子供心に違和感を募らせ、高じて彼らに反撥する。彼は己れ独りの自由を欲しがった。癇癪を破裂させずには息苦しくっていたたまれなくなるほどに・・。強情やら横着やらを募らせながらも、どこか心の隅で訳知らずに微妙な屈託を抱える子どもであったろう。幼い彼は混乱していた。

    駄々こねる泣きではない。誰かに甘えたり、かまってもらいたいわけでもない。冗談じゃない。<我は我なり!>と、その持て余すほどの自我意識に圧倒されて・・。彼は固く目をつぶり、己の内なる荒ぶる魂の息吹きに浴し、その盲動に身を委ねる。快なる哉!と叫んでいる。云うなれば実存の問題である。そもそも彼の反抗心とは、<飼い馴らされてたまるか!>という一言に尽きるのではなかろうか。そうは言っても、世間で己の居場所を見つけるということは常識的には譲歩・妥協の結果である。それでいつの間にか知らず知らず飼い馴らされてゆく、それを自分の運命と甘受する。それが世に言うところの大人の分別だとして、それに飽くまでも刃向かわんと徹底して己の意思を主位に置くとしたら、それは傍からみれば‘狂人’と映るやも知れない。漱石の自伝的小説『道草』の中に<心の底に異様の熱塊(ねっかい)がある>と語っているが、まさにそれであろう。その熱塊とは、換言するならば‘痛苦と慟哭’でもあろうし、漱石をして内因性鬱病に至らしめている元凶ともいえよう。

    エリアス・カネッティの著書(『群衆と権力』)の中に、schuld という言葉は本来、己自身が他の人間の掌中にあることを意味するということが書かれてあった。ドイツ語のschuldはもともと<義務>を意味し、支払い義務としての<債務>と贖いの義務としての<罪>との両義を有するとか。己自身の人格が‘買い叩かれ二束三文にされた’でもいい、或いは‘質草にされた’でも‘差し押さえをくらった’というのでもいい。如何ように形容しようとも、真にこの感覚、つまり自分という存在を誰かの‘餌食〔獲物〕’として見做し、その運命に甘受する、そうした踏みにじられた者の傷痕が夏目金之助(漱石)の心深くに刻まれた。是が非でもその軛から解放され、自由なる己を我が手に奪還せねばならない。それが彼の生涯を賭けての熾烈な‘願’であったに違いなかろう。即ち、己自身を‘贖う’ということなのだ。

    自分という存在が‘返済不能’というレッテルを貼られた「罪」ある者だという意識は彼の中に永久に片付かない不愉快さを染み着けたものと察せられる。その端緒として、おそらく7歳以降と思われる金之助〔漱石〕が生家に舞い戻った頃の逸話として書き留められている、『硝子戸の中』の下記の叙述は刮目に値する。

    或時私は二階へ上がって、たった一人で、昼寝をしたことがある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。・・・・その時も私は此変なものに襲われたのである。
    私は何時何処で犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣ったのか、その辺も明瞭でないけれども、子供の私にはとても償うわけに行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうして仕舞いに大きな声を揚げて下にいる母を呼んだのである。・・・・母は私の声を聞きつけると、すぐ二階に上がって来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでもいいよ。御母(おっか)さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変嬉しかった。それで安心して又すやすや寝てしまった。


    これが実話なのか空想の産物なのか、その信憑性について、「私は此出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている」と彼自身述べている。だが、朧ながらも母親から慰藉の言葉を貰ったという記憶が故に、漱石の中で母親への強い親しみの絆は終生揺るがぬものとなった。ここに彼のいうところの「いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡げた」といった生命力の真っ当さを見る思いがする。これこそ夏目漱石の真骨頂である。

    漱石は他の著作で己自身に回顧させている。「然し今の自分はどうして出来上がったのだろう」と。そして更に、彼は綴る。「彼は斯う考えると不思議でならなかった。その不思議のうちには、自分の周囲とよく闘い終せたものだという誇りも大分交っていた。・・・」(『道草』)

    ほとほとどうにも片付けようもないほどに縺れた因縁の糸の絡まりでしかない、そうした自分という存在の‘謎’を直視し、懺悔の思いとともに解きほぐさんとした。彼のいうところの‘心理現象の解剖’である。自己の葛藤も矛盾も、そして欺瞞すらも、それらを物語ることで辛うじて‘筋立て’が生まれる。己の中の問いがそれ自身答えを模索してゆく。勿論、答えは流動的で、木葉が身を翻して落ちるときのように捕らえどころがない。瞬時一寸先が闇みたいなものだから、アルといったらいいのかナイというべきか。しかしながら己を一個の実存として捉えんとするならば、それでしか確かめようがない。近代的自我の功罪とはおそらくそれに起因する。英文学の学徒であった「夏目漱石」が敢えて小説家(物書き)にならざるを得なかった理由がそこにある。

    命がけで苛烈に闘った人であった。‘悲傷の魂’ながらも、その躓きが滅びとならず、いつしか真に己が贖われんがために・・。魂の自由自在を希求し、悶えながら泣きじゃくりながら五十年の生涯を駆け抜けた。精神分析家として私がめざさんとする【贖いの器】たる一生涯をそこに見る思いがする。よくぞ生きてくれたものだと感慨深い。因みに今日が『漱石忌』なんだそうな・・。

  • 2012/11/24 セルフポートレート舞台裏

    いつぞや【フォトギャラリー】に掲載した「附録・セルフポートレート」について振り返ってみたい。そもそも事の起こりはウォーキング・ツアーで赴いた長野県の戸隠の地で、鏡池から奥社参拝へと向かい、その帰途の参道で偶然ながらカメラアイで光と影に戯れたことにあった。

    旅行会社の「戸隠古道ウォーク」の触れ込みには「古の神々の山 癒しの杜」などと書かれていて、いつも見かけるお馴染みの写真は巨大杉が居並ぶ参道。そこには靄がかった光の中、ただただ静寂な時が流れている。人っ子一人いない。ところが実際に現地にゆけば、とんでもない光景が眼の前にあった。まるで原宿の竹下通りではないか。人の群れでごった返している。なんでもテレビで放映されたとかで、今や人気のパワースポットなんだそうな。奥社参拝には人人の長蛇の列で、私はもう恐れをなして途中から引き返した。ぶらぶらと所在無げに鳥居まで戻る路、手持ちの携帯カメラで杉並木を写したところ、そこに私の影法師が写っていた。俄然面白いと写欲が湧く。その懐に礫を抱え込む、威風堂々たる杉の樹皮に写る自分の影法師もだが、よくよく見れば、参道の傍らを流れる小川の向こうの岩の表面にも私の影法師が居るではないか。歩きながらカメラを構える私の背後には絶えず人が行き交いしていた。辺り一面、清澄にしてしっとりと潤んだ空気は絶えず流動している。そこに杉並木をくぐり抜けて光が縦横に射し込んでくる。晩秋の午後の柔らかな光は乱舞していた。その妙なる光のシンフォニーの中に浮遊しながら私の影法師は至るところで踊っていた。幼い頃に興じた‘影踏み’遊びではないが、それらの影法師を追っかけては夢中でパチパチとカメラに写し取ったのだ。

    それらをパソコンに取り込み、プリントアウトしたら案外に面白い。写真が限りなくも‘絵画的’に近づかんとする「フォトペインティング」に私はこだわっているのだが、期せずしてそうした趣向になっているではないか。偶然の賜物だから猶のこと、愉快を覚えた。

    それでふと妙なことを考えた。【影法師の私】のNO.1を眺めながら、<私の「遺影」はこれだわ!>って瞬間的に思った。つまり私の葬儀用の肖像写真のこと。それもなにやら突拍子もない、云うなれば‘不穏当’極まりない発想なのだが・・。死後に<生前の私とはこんな私でした。どうぞ思い出してください>というのが「遺影」の写真の意味なのであろう。決して皮肉でもなく、この真っ黒い影法師が気分的に私だと何やらしっくり合点したという事実に、誰に語ることでもなかろうが、内心秘かに愕然とした。どうやら最近の心境として、やはり自分としてはこの時代に一つの‘捨て石’として生きるしかないと観念したからだろうか。それであの幽境の地・戸隠の杉やら岩やらに妙な具合に‘同一化’した故なのだろうか。

    私は自分の父親が亡くなった折り、彼の葬儀に使う「遺影」を作製した。それは、或る夏《琵琶湖花火大会》で家族皆が集い食卓を囲んでの団欒のスナップ写真から彼の姿だけを切り取ったもの。アルバムのあちこちを捲るも父親の笑顔のはその一枚しかなかったから、それでどうにか間に合わせた。母親が喜んで、私のもいずれお願いね、と頼まれた。彼女の場合は全然難しくなかろうが、さて自分のとなると、まるでこれという写真が無いということに気づかされた。そもそも個人ホームページを立ち上げる際、自分のプロフィールとして紹介する私の肖像写真には苦労した。最近のものが無い。それで随分昔の写真、父親と一緒に彦根城の梅見祭りに訪れ、そこで撮ってもらったスナップ写真で急場を凌いだ。自分がいかに自分の似姿を残すことに興味を失っていたかを知った。カメラが趣味なのに、自分自身を写すことも写されることもまるで興味が無かったのだから。この歳月、自分がどんな顔して生きていたのか、見当も付かない。そんなことがあるだろうか。心底呆れた。

    それで私のホームページの肖像写真をいつかは更新しなければと思っていたこともあり、この際にとセルフポートレートに挑戦する気になった。つまり「自写像」というわけだが。これは驚きだった。勿論写すのは自分だから、写される瞬間には自分を意識してないわけもないが。レリーズで遠隔操作し、三脚に据え置かれたカメラのシャッターをカチャカチャと押す。それもだんだん慣れてくると、忘我の一瞬というか、自意識を超えたところで、そこに佇む‘素の私’なるものが現れる。どれも私だとは信じ難い。もはや私というより‘他者’である。さらには、その他者というのが一体‘誰’なのか、殊更に命名し得るはずもない。ここに‘謎’がぽっかりとその深淵な口を開けた感があった。

    或る肖像写真集の解説に、<ポートレートとは写すものがつくるあげるイメージではなく、写されるものが長い人生の格闘の中でつくりあげた現実である>という言葉があり、成る程なと感じ入った。確かに、この一瞬一瞬過ぎ去りし時が刻まれた私という‘現実’の中には邂逅した人々の面影の片鱗を宿しているに違いないのだ。

    そう言えば、或る方が【他者としての私】のNO.2ポートレートの顔には‘意志’を感じる、と感想をおっしゃった。それに刺激されて、ふいと<あれは本出先生の顔だわ>と一瞬閃いた。恩師・本出祐之とは私にとってはそもそもが「論理ロゴス」を体現していた。それこそが私の内に欠如しているもの・私の中に無いものであったから、取り敢えずは『精神分析』に取っ掛かりを得て、それを探し求めたというのが事の次第なのだ。それがロンドンのタヴィストック・クリニックとのご縁にも繋がった。さらには奇遇にも福祉行政視察のためロンドンを訪れた本出先生とも彼の地で再会している。帰国して以降も、クライン派としての自分の中で自分を支えているのは本出先生なのだという妙な自覚があった。時として不意と或る瞬間、私の意識が本出先生に重なるときがあるのだ。それは言葉ではなく、思考を辿る上での或種の‘態度’やら‘心的構え’でしかないのだが。その瞬間の顔が実にあの顔だという気がする。無いと思っていた「理知・自律・意志ロゴス」が今や自分の内に在ったということになるのか。時を経て、因縁の環がようやくにしてつながったような気がして、大いに慰めを得た。

    WEBサイトの個人ホームページの開設にあたり、自己開示には相応の覚悟があったものの、いくらカメラ好きで生来の‘面白がりや’の私でも、このセルフポートレートについてはちょっと公開するにはためらいを覚えた。又々誰かさんに、相変わらずですね、とナルシシスト呼ばわりされるだろうなと独り可笑しがってはみたものの、少々怯む気色がなくもなかった。ところが、【影法師の私】の写真を幾枚か見せられた私の画家の友人が狂喜した。<凄いです!藝術作品です!>と云うわけだ。どんと背中を押された。それだけではなんとも剣呑だろうし、ついでにやはり【他者としての私】の方も同時掲載することにし、【附録・セルフポートレート】として『フォト・ギャラリー』に追加した。

    後知恵だが、こんなふうに考えてみた。これら二つ、それぞれ10枚の写真は相関連している。云うなれば、《色即是空・空即是色》である。森羅万象ことごとく《色即是空》なのだから、どちらかというと【影法師の私】の方にこそ実相がありそうに思われる。だが、そうは言っても、どこか《空即是色》であることに飽くまでも自分としては執着してるのだ。つまり‘懲りない’自分がいるというか・・。自分が擁護するところの『精神分析』についてもそれが言えよう。やはり‘個我’というものに徹底して執着する由縁がそこにありそうだ。それでいて、《色即是空》を内心呟いているのだけれど・・。

    後日談がある。私のWEBサイトのご案内をするのに、文章ならば遠慮もあろうが、写真ならばもしかして面白がっていただけるかしらというわけで、ご無沙汰続きの知人・友人にお久し振りの手紙を添えてご案内を出した。それが次々と嬉しい予想外の展開を生んだ。はてさて、これって何だろうと訝しく思い、もしかしてという勘が働いて【戸隠神社】のWEBサイトを開いてみた。

    戸隠神社には「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々がお祀りされており、奥社に祀られる祭神は「手力雄命(たぢからおのみこと)」なんだそうな。どういう理屈もなしに心が躍った。それもどうやら‘縁結びの神さま’なんだそうな。なるほど、ホホーッ・・であった。私が戸隠を訪れた折には奥社の参拝もせず、遠慮して途中引き返した組なのだから、今更‘御神徳’をいただけるはずもないのだが・・。しかしながら、【影法師の私】のNO.1などは「手力雄命」が憑いたみたいで、そう見ると見えなくも無いから愉快愉快なのだ。

    実は、この「手力雄命」には個人的に或る秘められた思い出がある。銀座に『ギャラリー飛鳥』という画廊がある。折々に興味深い特別企画をする。アジア古代民族アートを主力に、尖鋭的な奇才たちの現代アートやらも・・。画廊主は桁外れに美意識のお有りの方なのだ。そこで私は十年余も遥か昔になるが、おそらく九州の産なのであろう「手力雄命」の奉納面に出会っている。一瞬にして魅了された。だが幾ら惚れこんだといっても、価格は50万もする。面には虫食いの跡もあちこちで。その値打ちは確かなものだとしても、美術品として私の部屋の壁に飾るだけなのだし。私なんぞが購入するには分不相応なのは明らか。保存にも責任が持てないし、畏れ多くて手が出ない。でも諦めきれずに執着した。そして未練たっぷりにいつか写真だけでもと狙っていた。そしたら意外にも別の展示会場でその御面に又出会うチャンスが来た。それで撮れた写真は実物に比べればいかにも気迫という点から格段に劣る。だが満足した。取り敢えずその「手力雄命」は ‘分相応’の私の所有物となった。それもこの歳月殆ど忘れていたのだが、棄てたはずもないと探してみたら、そのLサイズの写真は文箱の中に見つかった。<なんだ、そこに居たのか>と妙に安心した。スピリチュアリズムとは縁遠い私には「手力雄命」を守護霊にするなどという趣味はない。だが、何かしら、ふと感じるものがあった。私が今必要なのは、実にこれかも知れないという直感があった。

    『精神分析』に携わると、知らず知らずにヘブライ的なものに感化されてゆく。つまりは旧約聖書の神の言葉(ロゴス)を信奉することだ。和魂ゆえにか判然とはしないのだが、どうもそれには私の気持ちが落ち着かない。そもそもが‘超越的’概念を不得意とする、日本民族の言葉の欠陥とも言えようが・・。どうにも躓くのだ。

    ‘神の恩寵’というものを熾烈に求めんとすることの意義を知っていなくもない。か細くも脆い‘命の綱’を握りしめ生きんとするに、それが有ると無いとでは大きな違いだろうという認識はある。だが、その‘神’なるものが問題だ。ヘブライの神、「わたしは在るというもの」と名乗られる御方には充分魅了される。殊に『イザヤ書』には大いにこだわりがある。だが完全に帰順し得ないものが心に残る。

    「神の召命Calling」というものもあるのやも知れないという思いもある。だが、『精神分析』が真に日本人による日本人のためのものになるには、何か土着のものとの連携が必要だと常日頃から思ってきた。だから、私はこの歳月、『野田地方史懇話会』の人たちとご一緒に石仏やら史跡を巡り、それに地元の祭りにも参加してきた。それから、『日本青年館』で毎年恒例として開催される「全国民俗芸能大会」には必ず出掛ける。自分の中でいつか精神分析家としてこの日本という土壌に根が下りてゆく時機をジッと待っていた。そこへ戸隠の「手力雄命」だ。もしもそれが真に御力添えをくださるというのであれば、何やらほっとする、心穏やかになれる。故知らず、日本に外来のものが持ち込まれるときには‘不届き者’呼ばわりされるといった疑念があった。そうした心底に巣くうわだかまりが払拭されるかのように思えた。私の『精神分析』もようやくこれで安心できる、迷わずにゆけると一瞬思った。大真面目ながらも、こうした破天荒な思いつきを、はてさてクレージーcrazyというべきか、ファンタステックfantasticというべきか・・。

    翻って、「手力雄命」とは<光あれ!>の謂いと考えてみたらどうだろうか。遠い神世の昔、天照大神が天の岩屋にお隠れになった時、その無双の怪力をもって天の岩戸をお開きになったとかいう「天の岩戸開き神事」は大いに痛快ではあるが、この際、何も「神話」に足を掬われることもあるまい。自分の内側の闇に閉じ込められた、非存在なるものをブレーク・スルーする機縁やら縁起ということならば、それを‘触媒’とも‘助っ人’とも呼ぶのがよかろう。そして実につい近頃、私にとって「手力雄命」の一つの‘顕在’として現れた(!)のが、今更めいてちょっぴり気恥ずかしいのだが「夏目漱石」なのである。まさに歴史的に一つらなりということだろうか、彼を鏡にすることで、焦点づけられず茫漠としていた私なるものの像があれやこれやと脳裏に浮上し、幾多の想念が弾ける。実に‘イナイ・イナイ・バァー’といった次第なのである。

    かくして「セフルポートレート」体験を通して、自分とは如何なる私なのやら誰と呼んでいいものやら、それは空空漠獏たるものであって、他との因縁との切り結ばれ次第では実にどうにでもなるような、従って剣呑でもあり、かつ愉快極まりないといった錯綜した印象を募らせたわけだが。ここに一つ、小宮豊隆の著述(『漱石の藝術』)から「自己に対してツルー(true)であること」が想起された。おそらくそれも師匠「夏目漱石」からの口伝えと察せられるのだが。そして畢竟するに、それこそが私なるものの‘核’であり、それが如何ように自発自転してゆくかを油断なく見据えてゆかねばならぬと心に銘じた。

  • 2012/11/10 あなたも頑張って!

    或る日、私が買い物から戻ってきて、たまたま正面玄関からエレベーターに乗り合わせ一緒になった女の子がいた。小学校の5年生ぐらいかしら。行き先が同じ6階ということで、どうやら606号室の学習塾通いの子らしいとはすぐに察せられた。しばらくすると彼女が<今日が初めての日なんだ・・>とか、お喋りし始めた。私が<まあ、そう・・>と軽く反応すると、ややして<ちょっと緊張してる・・>と彼女、ボソッと打ち明けた。私もつられて、<頑張ってね・・>と言う。彼女、頭をコクンと頷く。エレベーターを出るや、振り返りもせず、いざ出陣!といった、きりっとした面持ちで、真っ直ぐに塾の部屋へと向かって姿を消した。いいなと思う。塾の先生方もいい子が来てくれたと、さぞ喜んでおられるだろうと思ったら、何やら妙だけど、私は或る種の妬ましさすら覚えた。

    翻って、即今の大學での話。学生たちは「ソコソコがいい」んだとか、それが現代若者らの風潮だと聞いた。野心がないというより、好奇心が希薄。なにがなんでも知りたいと思えることがないのだろう。教官の方も、何でもアリで、そこそこのものを並べて見せるだけだとしたら、そうして若者たちは甘やかされてゆく。問題は、むしろ教官たちが自らを甘やかしていくことに鈍感になってゆくことなのだが・・。「緊張してる」と言った、あの女の子は実にいい。頑張らせ甲斐があろうというものだ。
    生徒に<頑張って・・>と言えない教師などもはや意味がなかろう。

    実は、私は一昨年頃から<富士山麓ぐるり一周ウォーキング>に参加し始めた。それに並行して筋力アップのためにスポーツ・ジムであれこれトレイニング・メニューをこなす努力はするものの、まだまだ自分の体がスポーツする体になっていないことを自覚していた。そして或る日、旅行会社の日帰りツアーの「登山入門」のコースにおっかなびっくり挑戦してみた。どうしても関東最大級というブナ林の新緑の輝きを目にしたかったから・・。テーピングをあちこち足脚にバッチリ貼り付けて、ちょっぴり悲壮な覚悟で・・。たまたまその折のバスツアーで私のお隣の席に座られた女性などはいかにも山歩きはもうだいぶ年季が入ってるようにお見受けした。テルテル坊主がザックにぶらさがっていて、飄々と歩かれておいででしたし。で、その日は天候にも恵まれ、視界いっぱい鮮やかな緑に包まれ、快適至極。でもブナの林を抱いた鹿俣山は歩程約9.5キロ、約4時間半だから、きつくないわけもなく、音を上げかけそうなところで、なんとか無事下山。やれやれというわけで、帰路の車中はいろいろお喋りを楽しんだ。その方は60歳を過ぎて山歩きを始められたんだとか。高山植物が大好きで、花のシーズンは毎週のように山に出掛けておいでなんだとか。礼文島にも秋田駒ケ岳にも3回は行ってる、などと軽くおっしゃる。やはり、いいなあ、いいなあが思わず口をつく。その時彼女が私に、<私もね、登山始めた頃は、皆に頑張って・・と言われた。だから貴女にも、頑張って・・ね!>とおっしゃった。そんな励ましやら助言などをあれこれいただいて何やら俄然やる気が出てきたのはいいのだが、それからが大変。装備をすべて本格的な山歩き用にと買い換えた。まずは、例のいかにも重そうな登山靴。見るだけで敬遠していたのが、実際に履くと楽なのだと勧められてゲットする羽目に。レインウエアの上下やらダブルストックやら・・。まるで<山ガール>の気分で嬉しがってみたものの、結構それからがきつい。そんなテンヤワンヤの中で、ふと一つの或ほろ苦い感慨を味わった。

    私はロンドンからの帰国後、原宿で個人開業して以来、実に多くの方々と仕事上のお付き合いをしてきた。しかしながら振り返ってみて、<私も頑張った。だからあなたも頑張って・・>とはどなたにも言った覚えがない。一般の方にしろ、専門職の方にしろ・・。殊に専門職の方についてだが、精神科医にせよ心理職にせよ、将来の身分やら資格をどなたにも請合うことができない以上、頑張ってとは私の立場ではどうしても言えない。そうした窮屈な分別がいつも私を縛っていた。さらには、私自身、こんなにもロンドンで頑張ったのだという話なども誰にもついぞしたことはなかった。だけど今更ながらだが、やはり<あなたも頑張って・・>と言えたらどんなにいいだろうという思いが抜き難くあるのに気づかされた。

    『精神分析』は登山とも違うとはいえ、やはり<頑張って!>の伝統をリレーしてきたのではないかと思う。辛いけど、でも楽しいのよって言えたらいい。でも或る心理職の誰かがいみじくも言ってた。セラピイなどは今や<割りに合わない仕事>だって。そうであれば尚更に<私は頑張った。あなたも頑張って・・!>などという言葉は封じられたに等しい。今や心理臨床の場は裾野を拡げて、いかにも活況を呈しているかに見えるのだが。サイコセラピイの現状はどうやら貧困化を募らせてゆくらしい。いつかしら‘楽観’が勝つと思っていたのだが、それも望み薄い。勿論いくらか逡巡はあるものの、私はこのままやはり<あなたも頑張って・・!>を誰にも言わないままに終わってゆくのだろうと思う。やはりそれは飽くまでも人それぞれの運命が選ぶものなのだから・・。

    でも、ふと思い出すことがある。私がロンドンで関わり合ったセラピイの子どもたちは、うまくいった症例に限ってということだけど、来所理由の如何はともかく、セラピイ終結時にはなぜか皆、‘お勉強を頑張れる子ども’になっていた。学習成績が上がってゆくのだ。それがどんなにか嬉しかったか。頑張って良かった、そして頑張らせて良かったって・・。それこそがセラピスト冥利、心底報われたという思いがしたのだった。そんなことを久々に思い起こし、だからこそ、あの<緊張している・・>と言った、塾に通い始めたという女の子に、日頃使わない<頑張って>がつい口から漏れたのだ。
    おそらく<頑張って>と誰にも言えないとしたら、精神分析家なんて寂しいものではないかしらとふと思ってしまう。困った!

    そんな折、ひょんなことで或る人から<山上先生は精神分析という歴史を生きていらっしゃる、日本で、おそらく日本人として初めての方ではなかろうか>と言われた。一瞬胸が詰まった。身を竦めた。まるで隠れんぼしていて鬼さんにメッケタ!されたみたいに・・。その歴史といえば、私は帰国後に小此木啓吾先生から彼の師匠である古澤平作氏の論文を幾つか<これ読んでね>と手渡されたことがあった。日本にも精神分析の歴史が厳然としてあったわけで。あの当時、小此木先生は旗振り役で、『武田病院』の院長・武田専先生は専ら後方支援を担っておいでだった。お蔭で、帰国後どこにも行宛てのなかった私は『武田病院』」に引き取られる格好でサイコセラピストのポストを得た。恩義がある。そもそも彼らが師と仰ぐ古澤平作という御方は‘願’を心深く抱く人であったから、その志を継いだ直弟子としての彼らは気概に溢れていた。私はその彼らが共有する歴史の一齣に納まるべきものと期待されたのだろう。だがそうはならなかった。個人開業に専念したいというのは名目で、でも本音はどこか‘隠れていたかった’のだ。「クライン派精神分析」というものが未完成であると感じていた。その感じを引き摺ったまま、いつかその空白を埋めねばならないと、つまりはロンドンでの‘続き’をひたすら暗中模索していたのだ。それは今でも尚そうなのだが・・。そしてふと気づくと、なにやら今日『精神分析』は ‘絶滅危惧種’になろうとしているではないか。ここで観念して自分だけでも「精神分析家」を名乗ろうと思う。いつかしら蘇りがあるやも知れない。手渡されたバトンをまだしばし手放すまいと思う。そして、<あなたも頑張って!>の呼びかけをいつか誰かに届けられたらいい。

  • 2011/10/21 男純情

    最近あれこれ「夏目漱石」関連の文献を漁りながらも、やはり「漱石」の書簡集が面白い。殊に門弟たちに宛てた書簡に痛く感銘を覚えた。妙な言い方だけど‘男純情’が充満してるのだ。「諸君子」相手に気炎を吐くやら、愚にもつかない己の戯言やら自虐めいた繰言を漏らすやら。なんとも諧謔に溢れている。時には苛烈に相手を叱咤するものの、しっかと懐に温かく抱き込んでいるさまが実に心憎い。末尾に「呵々」とあるのが愉快だ。門弟誰しもが漱石の‘父性愛’にはぞっこん参ってる!どっちもどっち、この‘男純情’が凄くいい!羨ましいというか、折々にウルウル涙した。

    人は男でも女でもだけど、計算ずくじゃちっとも可愛くない!今この世に‘男純情’が廃れゆくのはやはり悲しい!<男が男に惚れずにどうする!男が男を育てなくてどうする!>と、私などは内心思っている。

    それで一つ思い出したことがある。当時、私はWEBサイトに個人ホームページを立ち上げることを考えていて、それも自力でやってみるつもりでいた。そこに《株式会社オーエス》と名乗る者からのセールスの電話が入り、珍しくもふいと会ってみようという気になったのだ。
    担当の営業マン・有波さんが訪ねてくるお約束の当日、上司の高橋さんという方から電話で私にご挨拶があった。実際その日は会社概要やらホームページ製作の過程及び諸経費やらの説明をお聞きするということでしかなかったわけだから、契約には至らなかった。いずれ又ということでお帰りいただいた。が、今ひとつ要領の得ない点が幾つかあったので、上司の高橋さんに私から直接電話を入れた。契約に伴うあれこれをさらに詳しくご説明いただいた。それら内容はともかく、その人となりに、一言でいうと‘部下の始末は付ける’人だろうといった印象が残った。実際の営業の現場では、気の焦りもあって、ついものの弾みで・・ということもあろうから、部下が失態を犯すということは日常茶飯事だろう。そうした事態を統轄し取り仕切るのが上司だとしたら、その人格が問われる。任せていいかどうかはその一点に尽きる。
    それで、日を改めて有波さんが2度目にお越しになった際に、<いい上司ですねえ>と、私は彼に言った。すると彼が相好を崩し、<尊敬しているんです。ああいう人に自分もいつかなりたいって思っているんです・・>と上気した顔で彼がこう言ったのだ。この‘男純情’に免じて、ようやくこれは任せていいと心を決めた。勿論、彼の<どうか山上先生の‘自己開示’のお手伝いを是非させてください・・>という積極的な姿勢に背中を押される格好ではあったのだが。かくして契約に至り、もう丸3年のお付き合いが続いている。

    さて、そこで夏目漱石の「ホイットマン論」(明治25年10月『哲学雑誌』掲載)なのだが。この論文が19世紀のアメリカの詩人ウォルト・ホイットマンをわが国に紹介した最初の文献であるということが注目される。その中で漱石は、自主独立の気概に溢れた、このデモクラシーの詩人に鋭く感応し、そこには人類の未来が目指すものとして‘manly love of comrades’(友愛の精神)の唱道されていることを大胆に論述している。

    実にこれこそが漱石という人の生涯を貫いたプリンシプルではなかったかと私は思う。そういえば、どこかで彼が<(自分は)吾党の士のために書いているんだ・・>と語っていたが。おそらくさもあろう。それって、漱石という‘男純情’なるものの「願掛け」ではなかったかしらと思うのだ。それを遮二無二やって彼という人は命を閉じた。そして現代、小賢しくも小利口になってしまった、我々利己的な人間たちは彼の‘男純情’に浴することでギスギスした窮屈な命が癒されているとは言えないか。

    ところで、この‘manly love of comrades’に言及し、小宮豊隆が著書『夏目漱石』の中で「純潔で、私のない‘男ずくの友愛’」と語っているのがちょっと引っかかった。いかにも小宮豊隆らしい‘男純情’の発露とも窺えなくもないが。友愛の精神を‘男’に限ってしまうのも面白くないわけで。もっともホイットマンについていうならば、南北戦争当時の従軍看護兵士としての体験が見逃せない。凄惨なる‘生死’の場を共有した者同士に芽生える連帯というのがあり、そこで苛烈に味わった、傷つき朽ち果ててゆく命への哀惜こそがなによりもホイットマンのいうところの‘僚友愛の精神’を育んだ糧だったといえよう。このmanly (男らしい)という語をむしろresoluteの意味として、‘決然たる’とか‘断固とした’とか‘揺るぎない’とか訳すのがいい。だから‘manly love of comrades’とは敢えて訳すならば、「揺るぎない僚友愛」といったところだろうし。‘manly comradeship’であるならば、「堅忍不抜な同志の交わり」であってもよかろう。

    とにもかくにも、どう訳そうとも、ウォルト・ホイットマンが夢見た‘未来の記憶’を私たちは今生きているだろうかとふと思ってみるのだ。それをどこかに置き忘れてこなかったかどうか。而して現在にあって私がこれに女の身で賛同して何が悪かろう。事実決して女たちが埒外に置かれているわけではないのだから。因みに、【大道の歌】のなかに下記のような一節が、ホイットマンの魂の‘呟き声’として挿入されている。

    (いまだにぼくは昔ながらの甘美な荷物を携えている、
    ぼくの荷物は男たち女たちだ、どこへ行くにもぼくは彼らを携えていく、
    この荷物はぼくにはとうてい放りだせない、ぜったい無理だ、
    ぼくのなかには彼らがいっぱい詰まっているし、ぼくもお返しに彼らにぼくを詰め込んでやる)


    なんと逞しい、これほどにも抱擁力のある‘腕’の持ち主がかつて存在しただろうか。彼の‘腕’に男たちもそして女たちもが抱かれる、かつ彼自身もまた男たちにそして女たちによって抱かれるという。この骨太の楽観が彼の持ち味であり、彼という一個の人間はいうなればコミュニオンcommunion(交わりの‘回復’の場)なのだ。頼もしくも、このウォルト・ホイットマンの精神の在りように日本人で誰よりもいち早く感応したのが弱冠25歳の英文学徒・夏目金之助(漱石)であったというのが私にはなんとも愉快でならない。かくしてそうであればこそ、今や遅ればせながらも私が漱石と出合うという、この‘因縁の糸’の列なりには心底腑に落ちる思いがしてならないからだ。

    だから、漱石とその膝下にかつて集った若き命たちの交わりが醸すところの‘manly love of comrades’、私なりに換言すれば‘男純情’なのだけど、それを何やら著名な漱石評論家らが‘同性愛’云々として評してるのは実にお門違いも甚だしいと私は思う。いのちが愛撫されること、いのちが抱擁されること。それだけが真に大事なのだから。

    もう一つ、蛇足ながら、さらなる連想が浮かんだ。《クライン派精神分析》が究極にめざすものとは「同胞愛」なのだということを聞かされてあった。それをどこで誰に聞いたかの記憶がない。何故かDr.メルツアーの顔が浮かぶから、おそらく彼になんだろう。それでその折にどういう英語が使われたのかさっぱり覚えがあやふやだ。brotherhoodなのだろうか。この語とcomradeship とは同義語に近い。そもそもDr.メルツアーは、その出自はともかく、育ちからして生粋のアメリカン・ボーイなのだから、案外とウォルト・ホイットマンにどこかで繋がっているのやも知れない。そう考えると彼について幾つか腑に落ちる点がある。これは一つ嬉しい謎解きになろう。

  • 2012/08/25 夏目漱石と私

    妙なるご縁で或る人に<夏目漱石と山上先生とは歴史的には一つらなりです>と指摘された。漱石がロンドン留学を振り返って「不愉快な」という言葉で一括りにしていることなどまるで知らなかったのだが。なぜか一瞬不意を衝かれたみたいに、胸苦しい感覚に襲われた。まるで1900年代の霧深いロンドンに引きずり込まれるような・・。ついで、ある種の忌避感が胸から迫り上がった。私のロンドン留学体験をトラーマとは一概に言えないだろうに、あの異国で孤独だった自分のからだのどこかに当時の閉塞感やら、もっと言えば迫害感が案外と滲みついたまま消えないでいる、と改めて気づかされて、ちょっと内心慌てた。

    私はロンドンからの帰国後、舞鶴の両親宅でしばらく骨休みをした後、東京・原宿に居を構えた。その引越しの際、父親から大きな箱を一つ手渡された。その中に私がロンドンから親宛てに送った書簡(封書・エアレター・絵葉書)がぎっしりと詰まって保管されていた。有難うと言って受け取ったが、何ら関心はなかった。そしてその後30年余りも倉庫に仕舞われたままで、手を触れることすらなかったのだ。WEBサイトの個人ホームページに《ロンドンからのたより・両親宛》として掲載するまでは。云うなれば、私はここずうっとロンドンで暮らしたあの当時については‘記憶喪失’であった。「ロンドンの夏目漱石」を知ろうとすることなぞ論外だったという気がする。ところが、ロンドンからのたよりをWEBサイトで人目に晒してみての今現在は違う。しみじみと思うのだ、私がなぜあそこにいたのかを。そして彼がなぜあそこにいたのかを。時の隔たりを超えて、確かに繋がっているかもしれない、その何かを知りたいとも思い、ついでにここは謙虚に我らが先達、明治の文豪・夏目漱石から学ぶのも悪くないと思い直した。それで彼の日誌やら書簡を読み漁る。実に面白い。自分と重なる点を見つけ、尚更に興味が増した。意外にも彼がプライベート・コーチを受けたクレイグ先生のお住まいがなんと「グロスタープレイス」だなんて、この発見にはもうびっくり。私が元住んでいた処なわけだから、ほんと懐かしい。何も知らずに漱石がかつて見た風景を私も見ていたことになる。俄然漱石という人に親近感を覚えた。

    そこにまた偶然ひょんなことに、『金剛出版』からコラム執筆の依頼が飛び込んだ。漱石と私との因縁めいた何か書けるかも知れない、書きたいような気がして受諾した。それから夏目漱石関連の文献を読み漁った。これが実に大変。その膨大な量には恐れをなした。何からどう手を付けていいものやら。とにかく彼のいうところの「自己本位」に倣って、自分の勘を拠り所に或る筋立てをし、掘り下げてみた。実に漱石のロンドン滞在中の一篇の英詩が、そのきっかけだったのだが・・。それから一文をしたためた。嬉しかった。後からずうっと遅れて来た、門外漢ともいえる私が、誰のでもない、私自身の視座で漱石と切り結んだと思えたから・・。下記の文章がそれである。(『精神療法』第38巻第5号掲載。)

    ※※※※※※※※※※※※※※※※※

    【夏目漱石と私】

    私は1970年代にロンドンの【タヴィストック・クリニック】に私費留学している。その経験の内実が私のWEBサイト【山上千鶴子のホームページ】 の「書簡おちぼひろい・ロンドンからのたより(両親宛)」で詳らかである。明治の文豪・夏目漱石は1900年から2年余り官費留学生としてロンドンに滞在した。漱石と私が重なるのは言語上の躓きであり、さらには己の立脚地を模索しての苦闘の軌跡である。文学と『精神分析』というフィールドの違いこそあれ・・。

    漱石の英詩はもっと注目されていい。在英中の一篇《Life's Dialogue》だが、クレイグ先生に見せたら、incoherent(支離滅裂)と評されたのだとか。この深傷はさぞ癒しがたかったろう。だがそれはバイロン卿にも似て、「近代自我」の息吹きに溢れ、気概と熱情が漲っている。「自己本位」の萌芽がそこに兆している。その骨子は明瞭だ。「生きる」とはすべからく‘自分ごとpersonal-matters’なのであるから、とことん「我」に執せよ、断じて手放すな。さまざまに糾(あざな)われた‘内なる因縁’に更なる撚りをかけよ。言葉を与え、かつ語らしめよ。斯くして「主体」を紡ぎ出せというものだ。畢竟するに『精神分析』の眼目とはこれである。

    英国の文芸は19世紀初頭「ドイツ観念論」を摂取せんと切磋琢磨した伝統がある。殊にカントの《構想力》(Imagination)である。S.T.コウルリッジが先鞭を付け、イギリス・ロマン派の台頭となった。漱石はその伝統に列なる。又、英国に於けるこうした伝統を精神的土壌にして培われたのが【クライン派精神分析】なのであり、メラニー・クラインービオンーメルツアーの系譜がそれである。そして私はそれに列なる者の一人である。1970年代に彼の地で私が書き綴った【ロンドンからのたより(両親宛)】を読み返しつつ、今更ながら夏目漱石との深い因縁に心打たれている。

    そもそも《徹底して自己に執着せよ》との勧めなど到底日本人には物笑いの種でしかない。その点からして、「自己本位」(換言すれば‘ロマン派的苦悩’)も『精神分析』も当然ながら分が悪い。ところが、近年《漱石ブーム》のようである。ここに歴史的に何かがリレーされてゆく確かな手応えを頼りとして、近代精神とは一人ひとりの中で掴み取るしかないと思うわけで。そこで、心理臨床に携わるプロフェッショナルの諸君に、まずは<自分に語らせてみてはどうだろうか>と呼びかけている。

    ※※※※※※※※※※※※※※※※※

    ふとここで連想されたことが一つある。私の身近な友人に、‘岡目八目’といえばいいのか、なんでも斜に構えて物を言う、なかなか辛辣な評論家タイプの男がいた。その彼が、私のことを<1周遅れで、先頭を切って走っているみたいな感じだ・・>と評したことがあった。おそらくクライン派精神分析家を名乗る私を揶揄したつもりだろうが。当時ロンドン帰りの‘時差ボケ’を依然として引きずってたし、日本に於けるこの業界の事情にはまるで疎い私にしてみれば、1周遅れどころか3周遅れといってもいいぐらいだから、その折も、お説ごもっともと引き下がるしかなかった。言い得て妙なりとも感心した。私は自分が何をどう考えているのかに興味があるだけで、周囲の、それも有識者やら権威筋の誰其れが何をどう言ってるとかはほんと気にしないところがある。‘視野狭窄’になるのもよろしくないのは分かるが・・。しかしながら、例えば研究者なり評論家なりが‘業績’として夏目漱石について論文をものにしようとしたら、まずは前の人たちが言ってることを総浚いするのが後から来たものの礼儀になってるようで、その安易さを疑問視する。下手すると、誰某が何言ってるだけを羅列するに終始し、特にそれが著名人ならば安心してしまう嫌いがありはしないかと・・。それが無難と言えばそうだが。出版業界やら文壇の仁義みたいなものもありそうな・・。それって剣呑でもあるし、だから今回も、「漱石」絡みでいつもの如く己の直感に基づいた‘我(わたし)流’を押し通してしまったことになる。自信などある筈もない。

    ところで、その‘1周遅れで先頭切って走ってるつもりのランナーの私’に話を戻すと、自分でも些か不可解にも感じたからだろう。そもそも私が周りの誰や彼やらとNO.1を‘競り合っている’というのが変だし。それで、もう一人の別の友人にたまたまその話をしたのだ。すると、その彼が<真実をめざすのに後も先もない・・>と言った。その言葉がすとんと私の胸に落ちた。つまりは、私なりに、誰にも迷惑を掛けない限り、言いたいことを言えばいいんだと鼓舞されたのだ。ただ、いつも‘我(わたし)流’だから、桧舞台で堂々論陣を張るわけにはゆかない。いつも‘隠れた人’として独り言を呟いているだけ。自分でもちょっぴり可笑しくなる。

  • 2011/12/11 共鳴板としての他者

    サミュエル・ベケットの著作に親しみながら、往々にして疑問符??の靄にすっぽりと絡み取られるようで躓きながらではあるのだが、その折にふいと私の2歳半年下の実妹がかなり昔に何気なしに語ってたことが想起された。彼女は京都府宇治界隈の小学校で養護教諭をしていて、地元の児童らのさまざまな家庭の事情に通じていたわけだが。<近頃は、‘母親’ってのはいっぱいいるけど、‘オカーチャン’ってのがいなくなった・・>と言うのだ。何故ということもなしに一瞬ヒヤッとした。母親たちに、そしてもちろん子どもらにも一体何が起きているんだろうかと胸を付かれた。もしやして我々日本人のメンタリティーが否応もなく西欧化されてゆくうえで避けられない何かしら‘陥穽(落とし穴)’に嵌ってるのではないかと気遣われ、それ以来ずうっと気掛かりであった。

    ベケットの書き綴った小説やら戯曲やら、総じて彼がそこで追求したものとは、実にこの「オカーチャン」なのではなかったかと思われてならない。「オカーチャン!」と心底呼べたらいいのに、それがなんとしても口から出てこないといったジレンマにあるといった印象が拭えない。言葉が‘生まれぞこない’或は‘死にぞこない’というのもおかしなものだが、どっちつかずの冥腑(リンボー)の子ども、つまりは、行き先知らずの‘迷子’が執拗に登場してくる。勿論、そこには自伝的要素が色濃いのだが・・。永久地獄のような空回り、かつ宙吊り状態。つまりは不眠症的彷徨。ここにベケット独特のペーソスがありそうだ。閉塞感やら罪障感やらにがんじがらめになってる人に共鳴する所以だろう。つまりは我ら現代人一般に、というわけだが・・。因みに、彼の戯曲『ゴドーを待ちながら』だが。その舞台を見た刑務所の受刑者たちがこぞって「これってオレ、まさにオレだよ!」と唸るんだとか・・。身につまされるというわけだ。「オカーチャン!」の呼びかけは声にならずとも舞台上に潜在的に蔓延しているというのに、結局のところ、「ナーニ?」の応答がどこからも、たった一つも返ってくるはずもなく、虚空の闇に吸い取られて萎んで行く。為す術もないといった呆然自失の思い、その途方も無い剥奪感が反覆されるばかりなのだ。

    彼の戯曲『勝負の終わり』は1950年(ベケット44歳時)母親メイの死亡からほどなく執筆が開始されたもので、その完成にはさらに6年近い歳月が費やされている。この間に彼のなかで何が起きたのかを知ることは実に興味深い。或る箇所に私は目を瞠った。その台詞の‘声’は生々しく、そのあまりの真実性には触れる者に火傷を負わせるような、或種の衝撃を孕んでいたから・・。

    今や老いさらばえて不具の身を車椅子に縛られているハムに、ゴミ溜め用ドラム罐の中に閉じ込められていたハムの父親(養父)ともおぼしきネッグが蓋を開けて姿を現し、息子の彼に語りかけるのだ。

    「おまえがまだ小さくて、夜、なにかにおびえたとき、誰を呼んだと思う?お母さんかい?違うよ。わたしだった。おまえは泣いたままほっておかれた。あげくの果てに安眠妨害だと、別の部屋に遠ざけられた。(間)・・・・・わたしは眠っていた・・それを起こして、おまえは話を聞かせたがった。
    それも、どうしてもというわけじゃなかった。ほんとうにわたしに聞いてもらいたいというわけじゃなかった。だいいちわたしは聞いちゃいなかった。

    (間)いつか、ほんとうにおまえがわたしに聞いてもらいたいと思う時がくるといいがね、わたしの声を、人の声というものを聞きたいと思う日が。
    (間)そうだ、わたしはその日まで生きていたいと思う。おまえがまだ小さくて、夜、なにかにおびえて、わたしだけをただ一つの希望と思っていた時のように、わたしを呼ぶのを聞きたいからな。・・・」

    二親の喪に服して後、ようやくにしてベケットが到達した新境地であろう。親子の絆の基底には「呼ぶ・呼ばれる」といった関係性が必然的に在らねばならないと、それは示唆していないだろうか。親である者、子である者、それら双方いずれもが宿命的に担う、まさに業みたいなもの。呼びたい・呼ばれたいと熾烈に憧れ、懇望されながら、その祈りはなんと多くの人に見えず・聞かれずのままであることよ。ベケットは彼自らの言葉でそれを贖ったと言えよう。ここに一つの奇跡を見るような思いがする。

    そしてこの後、1959年にBBCより放送された、ベケットのラジオドラマ『燠火(おきび)』では、更なるこの‘続き’というか、ほんの数歩ばかりの進展が窺われるように思われるのだが・・。

    ハムにも似て、同じく老いさらばえた身で、失意の人・ヘンリーは、かつて幼き頃の或る日水浴に出かけたまま戻ってこなかった亡父を今尚も心の内に伴い、虚しくも延々と狂おしいほどの独白を続ける。「ろくでなしめが・・!」としょっちゅう言われつづけ、そして水浴に誘われても応じなかった息子に最後の「ろくでなし!」の捨て台詞を残して父親は海辺へと姿を消し、そのまま戻ることはなかった。その記憶を引きずって、幻聴でしかない波の音を消そうとして彼は躍起になる。それには自分の間断ないお喋りにうつつを抜かすしかないのだが・・。時折虚しくも「親爺(トウチャン)!」という呟きが彼の口から漏れ聞える。

    親爺だ、死人のなかから戻ってきて、おれの隣にいる。[間] まだ死んでなかったように。[間] いや、死人のなかから戻ってきておれの隣にいる、それだけだ、このおかしな場所で。[間] おれの言葉が聞えるのかな? [間]もちろん、聞えなきゃならん。
    [間] そうすりゃ、答えてくれる? [間]いや、答えちゃくれん。 [間]ただ、おれの隣にいるだけだ。・・・・
    親爺! [間]いろんな話を何年も何年もの間、話しをおれだけで、うまくやってきた、それから、ふいに、他人が欲しくなった、おれのそばに、誰でもいい、関係の無いやつでもいいんだ、話相手が欲しくなった、やつが聞いてくれると想像してみる・・・

    もはや「呼ぶ」ことも「呼ばれる」こともない。所詮波の音(内なる幻聴)に掻き消されるだけなのだが・・。かくして依然として剥奪感は苛烈に反覆しつづけるばかりなのである。

    翻って、ふと、私がかつて(1995年頃だが)俳優・沼田曜一主宰の「語り塾」に通っていた当時のことが偲ばれた。沼田曜一が日本各地を行脚し、鄙びた田舎で尋ね求めた民話とは、彼のいうところの大地のぬくもり、つまりは‘お袋(オカーチャン!)’なのだ。かくして彼の手の温もりにいとおしげに抱かれた言葉たちは、まるで春の日差しを浴びて植物が芽吹くように命を吹き込まれた。彼の語る民話の調べに誘われて、人々の想いは目覚め、つまり意識へとムックリ頭を擡げてゆくのだ。

    それは実に不思議な感覚だった。まるでトランプの札が一枚一枚めくられ、裏が表になってゆくような・・。眠っていた言葉が、懐かしい響きに揺さぶられ目覚めてゆくといったふうな・・。そして彼の言葉を聴きながら時折、その一つひとつが彼の口から出ているのに、まるで己自身の口から語られているような奇妙な錯覚を覚えた。否、彼と私とがまるでからだごと自他が曖昧となることで、取り違えが起きているのだ。それはあたかも赤子が、自分に話し掛ける母親の口元を見ながら、その唇の動き・声の振動・抑揚に身を委ね、そして母親に自分の身を重ねている快感をまさに連想させるものがあった。

    この快感とは、いわゆる‘小児万能感’を根底づけるものと言えよう。小児万能感とはそもそも、私が他者とは隔絶した絶対的な孤立の中にあるという不安を払拭せんがためのものだが。自分に呼応してくれる誰かにまた自分が呼応してゆく、その呼応の連鎖が、 不安の払拭にとどまらず、快感を生じるということ。 また、 それを親の立場からみれば、「ああ、この子、まるで私の言うこと分かってるみたい・・・」 と感じさせられるときの、あの驚きと喜びの体験にもなろう。 この共振し合う相互的関係性、一種の息遣い或いは息吹きが通い合うということこそが肝心なのだ。すなわち言葉は、分かる・分かられるべく知の道具になる以前に、情動的な応答・交流、つまり互いの関係性が響き合うための不可欠の要素としてあることを、故沼田曜一氏が、そして彼の遺したたくさんの民話たち一つひとつが語ってくれている。

    さらには、煎じ詰めれば「共鳴板としての他者」を持つことの掛け替えのなさが問われてるのではないか。わたしが‘呼ぶ者’として在り、かつ‘呼ばれる者’としてわたしが在るということだ・・。

    ベケットは(1934年:28歳時)、ロンドンのタヴィストック・クリニックでビオンのもとで精神分析治療を受けている。ビオンは、ベケットの鬱病の原因は母親にあると指摘し、母とは距離を置くように指導したらしい。そしてベケットは、母親コンプレックスは充分自覚していたものの、その治療方法に反発し、1935年の暮れにはビオンに絶縁状を送り付け、ダブリンに戻った由である。勿論それは母親メイとの間で性懲りもなく修羅場を繰り広げることでしかなかったけれども・・。彼は自分の内なる声に従った。詰まりは、とことん「呼びかけること・呼びかけられること」を断念してはならないということであり、自然家族にとっての‘厄介者’の汚名は拭いようもなく、格好悪い愚かしさの極みであったにしろ、敢えて彼は踏みとどまったとは言えまいか。己の直観に導かれてのそここそが、劇作家サミュエル・ベケット誕生の起点なのだ。
    私が擁護するところの『精神分析』とは、詮ずるところ、心の内に「オカーチャン」やら「オトゥーサン」やらを奪還せんとする、飽くなき心の営みと言えなくもない。ベケットにも相通じるものを感ずる。己自身がいつしか‘贖いの器’たらんとして在ることの希望に、己の全生涯を賭したとも言えよう。

    ここに【クライン派・精神分析】の存在理由がある。一人のわたしという自我の基底に‘内的対象なるもの(inner-objects)’の実在を信じて疑わないのだ。それらの応答性が故に、わたしは一人だけど、独りではないのだと・・。それは精神分析に携わるものとして、終世、握って手離さぬ‘願掛け’とも言えよう。

  • 2011/11/21 「死ぬなよ!」

    或る昼下がり。私は千駄ヶ谷駅へと向かっていた。黒いランドセルが2つ、私の眼の斜め下で、仲良く並んで揺れていた。どちらにも両脇に小さい布袋が幾つもぶら下がっている。近くの『千駄ヶ谷小学校』の下校時の男の子の二人連れであった。彼らは家路に向かい、寡黙に共に歩を進めていた。そのうちの一人の子の家が近づいたらしい。サヨナラはもう目前。ふいにその連れの子が「死ぬなよ!」と、彼にぼそっと声を掛けた。我が耳を一瞬疑ったが、疑いは無かった。言った本人が照れ笑いをし、傍らの子をチラッと見やった。言われた当人も同じく笑いを噛み殺し、顔を赤らめたふうに下を向いてる。彼らの後ろでそのやり取りを盗み聞いてしまった私も笑いをひそかに押し殺した。なんと大仰な!ややしばらくして、ついに別れ道に差し掛かる。「じゃあな!」と、双方が挨拶を交わした。その折に私は彼らの脇を通り越したのだが・・。「死ぬなよ!」と言った方の子が、曲がり角で去っていった子どもの後を追い掛けるように一瞬踵を返す仕種をしたのを眼の隅で捉えた。「又、明日ね・・」とか、もう一言なにやら伝えたい思いがあったのかしら・・。よっぽど仲良しなんだわと、ほっこりと私の胸の奥が温まる。

    これとは対極な、或る記憶が想い出された。いつかやはり下校時だったかしら、男の子が、いまさっき別れたばかりの別のもう一人の男の子に向けて、かなり距離があったのだが、「死ね、死ね!」を尖がった声で執拗に投げかけていた。胸が痛んだ。子どもらの間でこの言葉が流行ってるんだとか。ゲームソフトか何かなのだろう。その呪詛の言葉は毒を孕み、心を汚し、麻痺させる。まるでパソコンのウィルス感染のように流行してゆく。‘愉快犯’の高笑いにも似て、それはどうやら止まることは難しい。それに引き換え、「死ぬなよ!」という言葉はなんという希望だろう!子どもらの内に、悪魔の誘う「破壊性・暴力性」に打ち克つ善なるものを見た、そんな一瞬だった。嬉しくって、『千駄ヶ谷小学校』の男子生徒に、ブラボー!と胸のうちで拍手した。

    今振り返り、仲良しの男の子同士、学校帰りの道で別れる際に「死ぬなよ!」という一言は大仰と笑ってはみたものの・・。「又、明日ね」は、「生きていれば・・ね」ってことだから、確かにねと思い返す。それを文字通り口にすれば野暮だから、その言葉は呑み込んで、ただ「あなたのこと、忘れないから・・」と心の内で約束する。それでもう充分だろう。彼はもう一人の彼を忘れない、また翌朝にオハヨウ!が待ってる。そしてオハヨウ!と朝の挨拶を交わしながら、「また会えた・・嬉しいな」ってちょっぴり顔をほころばす。互いの中で互いを抱え合っている幸せなど大して気づかぬままに、仲良しを失うかもしれないといった懊悩とも無縁に、未だ別離を知らず、一日一日がただ過ぎてゆく。ずうっとそんな二人でいて欲しいなと私は思う。

    実は、これは今年の東日本大震災という未曾有の惨事を体験するちょっと前にたまたま目撃した出来事である。まだあの頃、私たちは明日があるのは当たり前と、のほほんとした、根拠のない楽観を日々生きていたような気がする。「死ね、死ね!」の流行語は単なる言葉の上での悪ふざけでしかないつもりでいられた。「言霊の国」の我ら末裔は滅びたりとでも言えばいいのかしら。なんでも本気にしたもんが損を見る、軽いノリでふざけ散らして、万事やったもん勝ちなのだから・・と。そんな風潮が蔓延していた。大人にも子どもらにも・・。そして<3・11>、まさにそんな恥知らずの‘常識’が覆された!

    被災地からの報道では死者の数は募る一方だった。東京都内に暮らし、節電のため暗闇の中でかろうじてローソクの燭に慰めながら、ひっそりとテレビの画面にくぎづけになっていた私やら、そして誰しもだが、なにやら身の置き所もなく、生きてる己自身の疚しさに打ちのめされるような思いで、ただひたすらに「生きてて、生きてて欲しい!」との祈りの言葉を胸のうちで呟いていた。

    退避してきた先で顔見知りに出会い、抱き合って無事を確認しあう。自分が失ったものを数えるよりも、ただただ目の前にいる人に<あなたが生きていてくれた!良かったあ!>と語りかける、そんな人々の涙でグジャグジャな顔がなんともまぶしかった!津波で総てを流されてしまい、我が家とおぼしき跡地に戻ってみれば、辺り一面無惨にも泥やら散乱するゴミの山で、ようやくにして埋もれてた家族の「写真アルバム」を探し当て、狂喜する男性が感極まって語る言葉。<もはや思い出すことしか出来ないと思ってたのに・・・これ、俺!俺や!・・これ、孫やで!>と・・。

    わたしたちの日常は、「生の衝動」と「死の衝動」との相克に満ちている。崩壊か秩序か、飛翔か墜落か。一瞬一瞬がきわどい綱引きであり、そこにわれわれの主体的意志が問われている。さて、どっちに加担するかである。この儚い、そしてとりとめのない‘わたし’を支える意識とは何だろう。「わたしが在るとはなんだろう?」 此の度の被災者たちが何よりもこだわったというのが家族写真だったということが心に沁みる。18世紀の哲学者・G.バークリーの有名な命題に【存在するとは知覚されることである】というのがあるが。被災地での苛酷な状況でまさに一人ひとりがそれを試された。やがてはそれぞれがなんらかの‘絆’へと立ち帰ったであろうか。

    ふと私がかつてロンドンのタヴィストック・クリニックで抱えていた研修症例・ハンナを想起した。当時流行っていた映画『スター・ウォーズ』から拝借したものだが、僅か9歳にして彼女は、己自身の内なる死の衝動の化身ともいえる‘魔王ダーレック’に己の癒し難い孤独感を重ねてみせる。その悲痛な声が闇の地底に響く、「応答せよ!応答せよ!」と。そう、もしかして誰かが応答してくれるならば、その繋がりに身を託することができるならば、そしてその絆を担うことができるならば、彼女ならぬ‘魔王ダーレック’の被る、死の擬態でしかない仮面は脱げるのだから・・。
    そうなのだ、彼女は私にこうも言った。<私が、あなたと一緒の人だって分かってるもの(I know I am a person with you)>と・・。確かに一人のひととしての自分(person)になるとは、そういうことだろう。つまり、それは【あなたと一緒に(with you)在ること】を前提とする。そのあなたなるもの(you)とは如何なるものか。外在的なものとして求めるのも一つだが。さらには、それはわたし(I)にとってもう一人のわたし(ME)として、眼差しを‘内在的対象’へと向けることが肝要となろう。

    心理臨床に日々携わりながら、個々それぞれの‘内的対象との絆’に焦点づけてみるならば、或る一つの感慨が浮かぶ。ひとが死への傾きを抱え、自分を躓かせたり、己自身に背くとき、そこには内的対象を抱えきれずに捨ててしまったという咎め立て(罪意識)があり、それが己自身に撥ね返り、捨てられたという嘆きやら恨みに転じているように見受けられることだ。

    私の心理臨床家としての流儀は、外的状況に照応して個々の分析患者において‘彼らを生きている内在的対象’に梃入れしてゆくというものだ。それら内在的対象とは、親とは必ずしも限っていないし、成人を対象にしている場合、現実にはもはや外在せず、既に亡くなっているということも大いにある。往々にして、意識圏外において‘名づけられぬもの’である。問題は、分析患者一人ひとりの抱える力なのであって、抱えることがまた抱えられることでもあるのだから・・。

    Mrs.S.Y.の亡き父親は、娘の古びた過去の記憶のなかでは夜驚の呻きに直結している。幼少時に養子先を転々とした辛い思い出が外傷体験としてあるのではないかとのことだが・・。脳梗塞を患い、最期は植物状態で逝かれた。そしてMr.K.M.の亡き母親がいる。死に際に眼前の空(くう)を見据え、凄まじい形相をしばしして後息を引き取ったと聞く。満州からの引き揚げであり、結核の夫を支え、姑にも仕え、看護婦として働きづくめで、二人の息子を育てた。それは忍耐の人生であったろう。寡黙でついぞ恨みも愚痴もこぼすことのなかった人なのに・・。娘(息子)として親を一人のひと(person)として見るとき、突如として「あの人がどんな人だったのか知らない・・」という衝撃に打ちのめされることはないか。ここからそれぞれ‘抱えなおし’が始まる。正しくも抱えられる自分を目指して・・。

    既にこの世にはいない故人に「死ぬなよ!」は奇妙に聞こえるが・・。尚も生きてて欲しいと願う。彼らが彼らの娘やら息子の内に・・。その親なるものを内に抱え続けることこそが彼らの人としての値打ちなのだと、私は時折しみじみと彼らを通して感銘深く学ばせてもらっている。その絆を生きてこそ、苦悩する力が涵養されるという意味で・・。バトンを引き継げ!それしかない。あなたがあなたであるために。あなたの始まりを真に生きるためにはそれしかない!と私は心のうちで念じている。
    ところが折々にがっかりするのだが、そうした彼らが、瑣末な外的事情に振り回されて、その場しのぎの薄っぺらな辻褄合わせで逃げようとするときがある。彼らの(亡き)父がそして母がいつの間にか掻き消されてる。お気楽さ・ごまかし・騙しの空騒ぎがただ続いてゆくのみで・・。私は、だから彼らの内なる死にびとに向かって、‘燠火’に息を吹きかける如く、「死ぬなよ(生きて)!」と可能な限り呼びかけ続けることを止めない。彼らを断じて消尽させてはならないのである。

  • 2011/11/13 わくらば回想

    遥かなる時の彼方を越えて私の手許に残った、色褪せたライトブルーのエア・メール便の束がごっそりと私の目の前にある。差出人は私自身。宛名は姉だったり両親だったり・・。古びた紙が変質している。それは、まるで先日の西沢渓谷ウォーキングで渓流沿いを歩きながら拾い集めた紅葉の葉っぱが、ポケットに入れたまま持ち帰り、一晩経れば、見る影もなく枯れ、色艶を失っていたのと同じなのだが。しかも違うのだ。そこには時間の変移は無い。私の自筆、幼い丸っこい字には今尚、‘今’が息づいている。今それを読む私は、そこに書かれている私を今という現在に見る。それは私なんだろうが・・。その私を取り巻く環境がめずらしくもあり、見覚えがあったり、まるで無かったり・・。かなり以前にそれらの手紙をワープロに入力して保存してあった。いつかそれら手紙の束は破棄するはずだった。だが、なんだろう、この感触は!時が刻まれている。そして尚も想いを伝えている!古びていて、しかも古びていない。もはや私の記憶のなかにも無かったものが、あった!また会えた!なにより思いがけなくも、私の生きた軌跡が一筋の道として辿れることに感慨無量となった。

    或る夢を見た。観光地らしい。ドイツの風景なのか。高台から街の景色が一望される。高い尖んがった塔が見える。城館があるらしい。足元が崖っぷち。大丈夫と思ったが、体の感覚が危うい。地面がいくらか傾斜していたようだ。何人かの連れが居て、手を差しのベてくれる。綱引きみたいに私は引き揚げられて、事無きを得る。そのうち、地元の人らしい男たちが来て、崖っぷちで私が危うく足元を掬われかけたところに植林を始める。小さい木だが。一応墜落事故を防ぐバリアーにはなるだろう。左側になにやらゴミ捨て場みたいだ。どうやら死体処理場。そこに自分が置いてあった傘を手にする。ゴールドのペンも・・。背後から母親らしき人がバギーを引いてやってきた。バギーには赤ん坊がいた。まっすぐに崖沿いに進むようだ。私の視界には彼らの後ろ姿だけしか見えない。赤ん坊もろともバギーがなくなるような予感がして、一瞬ヒヤッとした・・。

    ロンドンからのたより[両親宛]を整理していて、この歳月封じられてあった記憶がどうやら蘇った。と同時に、改めて自分の中のトラーマ(心的外傷)に遭遇した。1972年後半、当時ロンドン・ハムステッドの高級住宅街の或るお宅で住み込みのナニー(nanny)として係わったデボラとジャックリンの二人の幼い女の子たちのことだ。そして、私が両親に宛てた手紙(1972c)のなかに書き綴られた文面から、彼女らと過ごしたV.家での日常が呼び醒まされた。私の裡に当時と同じ混乱の渦が生じる。特にデボラについてだが、やはり「もう、わかんない!」といった感情には落ち着くものの・・。ただ、今や彼女が困った子どもというだけではなく、私の心の裡で「あなた」として呼び掛ける対象になっていることに気付く。忘却の淵に追いやっていた命を拾い直している。こうして命拾いした命たちがどんどん増えて行く。それも感慨深いというだけでは無論なく、やはり痛みが伴う。

    明らかに「言語遅滞児」と診断せざるを得ないデホラが、その後言葉を獲得したかどうか知る術はないのだ。お喋り好きの母親に同一化していないはずもなかろうし、案ずるには及ばないだろうが。ただ当時の3、4歳時の彼女のハチャメチャな渾沌状態に思いを馳せると、もし彼女に言葉があれば彼女は問うていたはずだ。「どうして私はここに居るの?どうして(私は)私なの?」と・・。そして、その彼女に私は寄り添ってやれたかも知れないのだが。哀れなデホラを置いてきぼりにしてきたという悔いが残る。そして、その後何年かを経て、実にこの体験は、『タヴィストック・クリニック』でハンナとのセラピーに引き継がれたのであったわけだが。その研修症例を成功裏に収めたことはせめてもの慰めだった。としても、だから尚更にデボラが不憫なのだ。

    事実いろんなことが経験できて、その糧を得てこそ心理臨床家としての私の今があるとの感慨も実にその通りなのであって、かつてトラーマだった出来事すらも‘思考の糧’になり得ることを知る。

    例えば、あどけない赤子のジャックリンのことだが。彼女は1歳を過ぎてもまだ這い這いしたままだった。或る日のこと、私はデボラとジャッキーと一緒に2階の廊下に居た。どこか部屋を移動する最中だったのだろう。彼女は私の足元の絨毯にうずくまっていた。それが、私がデボラに気を奪われている一瞬の隙に、突如2メートルほど先の階段目掛けて這い這いしながら猛烈にダッシュしたのだ。そして階段の敷居から体を突き出し、もんどり打つように飛んだのだ。あっという間のことで、私は一瞬凍りついた。駆け寄ると、彼女は階段下でおでこをぶつけ、勿論泣き声をあげていた。びっくりした面持ちではいたが、どこか「してやったり!」というか、へっちゃらな風情だった。日頃乳母車に身体を固定され、戸外での昼寝を強要されてる欝憤晴らしでもなかろうが・・。枠の無いことの怖さが解らないのだ。私は打ちのめされた。この育児状況にはどこか致命的な欠陥がある。私個人が責任を持てるとも思えないところで立ち往生した。私の罪だの咎めだのと迫害的になるほどナィーブではなかったけれども・・。往診医の診察を受け、ジャッキーのどこにも異常が無いと認められても、私の体の震えは消えなかった。彼らMr.&Mrs.V.にどう説明したら、解ってもらえるやら。この状況では私も‘罪’に加担してるという疚しさを覚え、心底憂いた。どう枠を設けられるというのか、彼女らの自由を奪わずに・・。もはや限界だと思わざるを得なかった。そこでほどなく私はV.家を去ることにしたのだった。

    人間というのは自らの命を賭してでも敢えて破滅を選ぼうとするものなのではないか。己がおのれ自身の手で打ち砕かれるのだ。この油断のならないものが自分だという意識を持ち続けることが『精神分析』の要請として常にある。油断していいとなれば、それはもはや‘腑抜けた精神分析’であろう。だが、どこか我々には安心していたいというのがあるだろう。だからこそ治療の枠組を厳守するという伝統に則ることが肝要で、それは火遊びはならないために、誰をも迷子にさせてはならないためになのだ。そして『精神分析』では、どなたも留まるのも去るのも自由ということになる。「契約関係」なるものの所以である。自己決定の自由があること、当然ながらそれがどうしてどうして決して楽ではないのだ。「大人扱い」されること。部外者にではなく、当事者になること。つまりは、「あなたは(you)・・」と呼び掛けられる存在として期待され続けてゆく。断じて「それit」として脇に押しやられていいはずもないのだから・・。

    (※補記:実に奇妙な事態というか、心底うろたえた。上記の文章をいつものように私の「携帯電話」に入力していたところ、なんと立て続けに2度もジャックリンにまつわるトラーマの箇所を誤って削除してしまった。滅多にはやらないが、日頃経験しなくもない単なる指の操作ミスかと思いきや、なんと2度もだ。3度目のやり直し。もう、うんざり!3度目の削除は避けたいので、慎重に書き上げ、どうにか自分のパソコン宛に送信して保存は一応済ませたが・・。余程ジャックリンのことを書きたくない、もしくは読まれたくないということだろう。実に呆れたというか、自分のやらかしたことにショックを受けた。自分の意識に反して、意図せずして勝手に自分の指が誤操作をした。信じられないというか、信じたくないというか・・。もう何に自分が責任を持てるというのか?私の‘無意識’の暴走だ!この行為化(アクティングアウト)には心底参った参った!

    ところがそれ以上にショックなことが起きた。翌朝、ウォーキング・ツアーに出掛けるため早朝5時起き。眠気で、まだ目がパッチリとは開かない。玄関の新聞受けから新聞を手にして、体の向きを変えた途端、内扉にガチンとおでこをぶつけた。本当にタンコブが出来たから仰天した!まさに昨日、ジャックリンが階段の縁からジャンプして、階段下に転げ落ちておでこにタンコブを作った話をしたばかりではないか!なんだろう?冗談じゃない!もう他人の世話どころじゃない。自分の無意識の怖さを思い知る。どうも自罰的になりやすい自分がいるのだろう。要注意だ!今朝、ウォーキング・ツアーに出発するに当たり、転倒事故やらが無いようにと、ひたすら神のご加護を祈った。トラーマ(心的外傷)体験というものを心底侮ってはならないと肝に銘じた次第・・。)

  • 2011/11/02 消えないシャボン玉

    近頃、郵便受けに大きな四角い封書が届けられている。裏には「ギャラリーあべ」と大きく印刷されてある。オッと思う。開封すると、A4版の紙に大きな平仮名でヒデアキ先生の創作したおはなしが綴られている。ウ~ム、これは読ませる!画家のヒデアキ先生は古希を迎えられたところで、『創作童話』に挑戦してるんだそうな。「五十の手習い」じゃないけど、慣れぬ文章修行に懸命に励んでおられる。日頃から小学校などに講演に招かれて、子どもらを前に『人生は宝の山』などと語ってきかせたりしてるわけだから、語りは得意であるのは知ってはいたけれど・・。

    その彼の創作した物語は、まるで眼の前でシャボン玉が大きく大きく膨らんでゆくのを見るようなのだ。シャボン玉は虹を孕んでいる。その輝きに魅せられて、忘れていた童の心がふいと甦る。でも普通にはシャボン玉はパチッと消える。お話にも終わりがある。語り終わったとき「もう一回!」と子どもが親にせがむように、ヒデアキ先生に「もう一回、もう一回!」とシャボン玉を所望する。彼は「じゃあ、もう一つね」といって、シャボン玉を吹く。かくしてシャボン玉ならぬ彼の創作童話が次々と私の手許に届けられる。時には挿絵入りで・・。

    まずは、お化けどじょうさんのお話し。森の中のふくろうさんの鳴き声に誘われて、森の中へ分け入って、大好物のなめ茸を探しに出掛けるお話し。ちゃんとふくろうさんへの手土産にお魚を口に咥えて運んでゆくところがなんとも律儀でいい。
    それに、ハーモニカを吹くうさぎさんと可愛い盲目の女の子の悲しいお別れの話やら。それから長靴の双子さんのお話しなんかはとっても傑作なのだ。名前がレフトくんとライトくんなのだから愉快愉快!下駄箱から飛び出て、いつしかお互いてんでに別れ別れになってたのに、最後にはめでたく再会できて一緒に下駄箱に戻った話やら。・・・泣いたり笑ったりで、胸キュン!なのである。

    誰かが此の度の東北大震災に遭った瓦礫の地を一面のひまわり畑にしたいと種を撒いたそうな。私はいっぱいいっぱい空高くシャボン玉を飛ばしたいなとふと思った。まだまだ頑張って生きてゆけそうに思うかしらって・・。

    ヒデアキ先生の童話は、種明かしをすれば実話。つまり彼の人生で遭遇したさまざまなものたちが登場してるんだそうな。因みに「ハーモニカを吹くうさぎさん」というのも、実は彼が新聞配達でなんとか貯めた小遣いでようやく買ったハーモニカを、引越ししてゆくという近所の女の子にあげたんだそうな。その子が盲目だったというのも本当のことなんだとか・・。

    ヒデアキ先生の人生は、なんとも言い尽くせぬ苦難の歴史。一言で言えばまさに‘焼け野原’。幼少期に実母が産後の肥立ちが悪くて亡くなり、生まれたばかりの実の妹は遠い親戚に貰われていって終生名乗り合うこともなく、つまり生き別れ。その後に連れ子して後妻に入ってきた彼の継母からは壮絶な‘継子いじめ’を受ける憂き目を見る。

    若い頃には新宿の風月堂などに屯してヒッピーしてたとか。そしていつしか画家になる道を彼は歩み始める。欧米各地を放浪したり・・。一見苦労した人には見えない‘極楽とんぼ’の風情でのほほんと生きてるようなのに、でも何かしらでしくじったり躓いたりで苦い思いを噛み締めてたりするときなどは、ふいと継母の顔が頭の隅に浮かぶんだそうな。そして「また、してやられた・・!」と内心呟くことがあるんだそうな・・。地獄の釜に茹でられるかのごとき・・そんな思いが執拗に拭いようもなく、心にこびりついているんだとか。その悪しき軛から逃れんとしながらも、またしてもそこへ引き戻されるということだ。

    心的外傷体験(PTSD)というものがはたして如何にして乗り越えられるものか。フロイトのいう‘徹底操作(work-through)’ということだが、それだって正直に云えば、何十年精神分析に通おうとそれでどうなるものでもないといった悲観が優勢なのだ。つまり成功例を滅多には聞かない。それどころか下手すれば、人は古傷に塩を摺りこむような事態を自己演出してゆくような酷い人生を営みかねないわけで。すなわち「反復強迫」ということになるが・・。そしてどん詰まりは、実に己だけの感傷と自己憐憫という罠に嵌ってゆく・・。

    「人生って、生きてみなくちゃわからない」とはよく言うことだけれども・・。心理臨床家としては常に分析患者一人ひとりが心のうちで‘綱引き’しているのを見据えている。自分を貶める自分がいる、自分を励起させる自分がいる。どっちに自分が傾くかは日々のふとした折々にどのような‘機縁’を掴むか、もしくはいかなる‘機縁’に掴まれるか、それ次第だろうと思われる。さて、感傷と自己憐憫だが、それはそうした瞬時の機縁を掴みとって自発自転してゆく自分というものをさっぱりと無能化してしまうもの。命が硬直したまま。「自己を贖う」という心の動きを封じてしまう。

    ヒデカズ先生の創作童話は彼の悲喜こもごもの人生の出会いのなかから、ほんとうに真実大事なもの、‘命の雫(しずく)’ともいうべきものを最後に手のひらに掬い取ってみせてくれたように思う。やはり彼は受苦(ペーソス)の人なのだろう。そして焼け焦げた地がいつしか時に癒されて、芽吹きの季節を迎えるように、この‘奇跡’ともいえる童話の数々が招来したことの由縁を知るものではないのではあるが、ただふと一つその契機として敢えて推し量るならば、ヒデカズ先生は山形県出身でもあるからして、もしかして此の度の東日本大震災からの復興へのやむに止まれぬ思いに駆り立てられてのことかもしれない。非情に押し潰される命たちへ向けて、彼は懸命にシャボン玉を吹いている。人々が心のうちで、いつしか希望を見失い、萎れて力尽きてゆこうとしているときに、もしかしたら彼のシャボン玉の一つにでも出会えたなら、もう一度希望を膨らませてみたいと人は思うかも知れない・・。押し潰されそうでもどうぞ壊れないでいて欲しいって、そんな鎮魂の祈りでもありそうだ。彼の創作童話の一つひとつが「消えないシャボン玉」なのだと、私は思う。

  • 2011/10/30 クライン派のスティグマとは

    或る日のこと、洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、ふと目元の辺りに眼がとまり、あることを想起させられた。メラニー・クラインの晩年のポートレートだが。そして、かなり昔々のことなのだが、当時親しかった或る友人に言われたことがあったのを想起した。「彼女のここら目の辺りがチズに似てる・・」って・・。ギョッとした。まだ30代だった私には、まさかという思いだったけど。その折のことが何か妙に心に引っかかっている。

    メラニー・クラインの老いて、なにやら目元に哀しげな風情が漂うお顔。でも、それも全然悪くないといった印象なのだが。よくよく見れば、堂々として揺るぎない、いかにもご立派ではある。美しいとさえ言っていい。でも目元が引っかかるのだ。私には年老いて自分が痛々しいさまになるのは厭だという思いがあったから、哀しげなとか痛々しいやらのポートレートに己自身を重ねることには抵抗があった。ロンドンでのこと、私の教育分析をしたMiss.D.Weddellはかつて私に、「精神分析というのは、幸福happinessとは関係ないのだ」と云った。当初もそれに大いに抵抗を覚えたが、人生半ばにも満たない私の若さがそれを否定したいと躍起になっていたのだと今にして思う。
    精神分析家としてMrs.クラインが生涯を掛けて見てきたものの悲哀(ペーソス)の余韻はどうやら裏切れない深い陰りとして彼女の目元に刻印されている。私はペーソス(pathos)という語に痛く惹かれるが。それは人の業苦を感受する感性だろうと思われるのだ。辞書には「哀れを誘う力」とあった。これなら解かる。私のことばでは「痛苦なるものへの感受性」ということになるが・・。

    英文学者で演劇評論家は高橋康也氏はペーソス(受苦)としていた。それこそが演劇と切っても切れないものだとおっしゃる。これはすごい!精神分析だってそうだ。精神分析こそペーソスを命脈とすべきと思われる。俗世間並の色気がちらっとでも顔をもたげるとき、衰退への道を辿っていると肝に銘じるべきなのだ。私は、この点において、ビオンにしてもメルツアーにしても油断はならないと思ってきた。それで一つ、最近解かって嬉しかったことがある。それはメルツアー関連のWEBサイトに掲載されていたのだが、彼がメラニー・クラインについて語っていたことでほっと安堵したことがあった。それは、彼の彼女とともにした分析体験に言及なされてのことだが、「ついぞ彼女が自分についてどんな(個人的な)感情を抱いているものやら知らない・・」と彼は言っていた。ヘェッっと思った。どちらかというと、メルツアーというひとは、生涯をとおして自分を導くところのミューズ(女神)を常に必要としていた趣きがある。親たちのかなり晩年に生まれた子どもで年の離れた姉たちがいたこともあるからだろう、事実上の‘一人っ子’意識が強い。二度の離婚歴がある。どうやら女性には甘え上手だったのではないかと思わる節があり、メラニー・クラインの‘末っ子’としての位置にどこか愛着してたのではなかろうかと思われた。で、メラニー・クライン自身はどうだったか。何やらメルツアーには期待はしてただろうが。表だってそれを口にしたようではなかったようで。つまり「貴方が私の後継者だ」云々と云った類のことだが・・。そのことに私は安堵した。人は老いると自分の業績にしがみつく。自分の誉れを守るのに汲々とし、従って誰であろうと自分を継いでくれる者への偏愛に傾きがちである。そうしたことに恬淡としうる人は滅多にいないだろう。功名心からなる追従と純粋無垢な憧憬からくる敬愛とをごっちゃにしてはならないが。死んでゆく者の矜持ということでいえば、メラニー・クラインという方はなかなか大した人だったと、まずまずは一応‘合格点’だったという思いがしたのだ。

    「マルコムX自伝」を読んで、なるほど!と愉快に思ったことが一つある。彼と対談したことのある或る著名なジャーナリストが彼についての印象を「買収不可能な(unbribable)」という言葉で評してる。なかなか日本語ではしっくりこないし、これまで聞いたことのない語だから、余計に新鮮に感じられた。詰まりは日本語でいうところの「鵜の根性なるもの」への抵抗精神というわけだが・・。民権運動家としての彼の業績はともかくとして、アメリカの黒人である彼が心底自らも闘い、かつ同じ奴隷の子孫たる同胞たちにも闘いを促し励まし続けたことがらは、なによりも「非個性化(depersonalization)」であったろう。「個性化(私が私になる、一人のpersonとして生きること)」、それを阻害するものこそを内に外に彼は敵とした。どちらかといえばキング牧師の名まえの方が通りはいいが。日本でも彼の地での人権運動家たちの余波を受け、呼応する気運はなくはないとして、どうもアメリカ黒人作家の日本人研究者ですらも、皮膚感覚でこの「非個性化」というものの実態を即ち傷痕を鋭く感得してるとは思えない。「寄らば大樹の蔭」とやら「長いものには巻かれろ」とやら。依然として江戸時代に固定した封建的な旧弊たる身分制度の足枷手枷に繋がれたままではないか。私たち日本人が心底そこから脱し、「わたしがわたしになること」を願うにはまだまだ道険しの思いがする。「飼い馴らされてたまるか!」の声が黙らされ、圧殺されることは此地でも日常茶飯事であろう。

    それにしても思うに、権力を掌中にして、「ぶれない・いい気にさせられない・ふわつかない」などということは結構至難なことで、もしかしたら社会で常に序列を意識せざるを得ない男性たちの方がよりこの誘惑を退けるのが難しいかも知れない。メラニー・クラインがメルツアーとのセッションにおいて正しくパッシブ&ニュートラルであったこと。彼女が伝統に則ることに厳しくあったということ。彼女が時折語るところの保証づけ(reassurance)を辛うじて回避したと云えること。それらには価値がある。それが単なる‘いい人’になることの誘惑から彼女を守る鉄則であったろうから。

    だが、実際それがもたらす功罪なるものを敢えて問うことには辛いものがある。メルツアーの口ぶりにも何やら物足りなさ・味気なさ・寂しさの余韻が残る。分析家が敢えて患者に(個人的に)どう感じているかを語らないことには徹底した「あなたはあなたでいいのだ」という容認がベースにあるからで。これこそが人間が人間として係わり合うことにおいて困難を極めるところだろう。親子関係やら師弟関係といった決して対等では有り得ない場合には上の者が下の者を導くという名目が先立つ。従って、下の者は上の者に対する恭順を求められ、つい飼い馴らされる仕儀となる。
    これを当然として「異議なし・違和感なし!」ならばラッキーということか。「甘えの構造」にすっぽり嵌まる。だが「あなたはあなたでいいのだ」ということがない場合には当然ながら買収可能な(bribable)関係性となろう。この危うさを知ることは案外難しい。

    精神分析は、この「あなたはあなたでいいのだ」を擁護するものである。私は、己自身の最初の頃の分析体験を振り返ると、痛く混乱した覚えがあるのだが、正直「どう自分が感じていいのか目安が付かない」のだった。つまりまずは「対象ありき」だった、それが「まずは自分ありき」に切り替えるのに随分と手間取ったからであろう。
    だが、コツを掴めば、結構それはそれで楽になるもので。だが、それもとことん相手が自分に感情を向けることへ(ポジティブだろうとネガティブティだろうと)ある種の突き放した感情は非情ということになりがちだとしたら、それも深刻に憂えるべきものとも思えたが・・。

    ここで逆説であるが、開放感は孤独感の端緒なのだ。私はメルツアーと違って、継承というより‘乗り越え’に忙しかったから、未練とか愛着は極めて乏しいままに、もうたくさんだ!うんざりだわってのが正直のところで分析体験を終了した。メルツアーのように、自分の分析家(training-analyst)が自分にどのような個人的感情を抱いているかなどと、それを忖度するほどにも甘えていなかったというか・・。
    それが、なんと帰国後1年ほど経た頃に、Miss.D.Weddellから一通の封書が届いた。私の日本の住所を彼女には知らせていなかったはずだから訝しく思い、かつその自筆の文面がミミズの這った跡みたいにまるで判読不可能なのだ。ほとほと困った!そのまま捨て置くわけにもゆかず、極めてプライベートな事柄なはずだからと躊躇はしたものの、致したくない、当時たまたま青山のカナダ大使館に、イギリス以来付き合いのあった英国人の知人がいて、その彼にそれを見せたのだ。筆跡をたどり、なんとか読んではくれたが、その文章のあまりにも内容が濃密といえばいいか、彼という方はオペラとワインに眼のないごく普通の常識人であるからして、大いに困惑し、「どういうことなんだ!」と驚きの声をあげて私に訊いた。
    私はこの事態に面喰らい、分析の枠の外へと漏れ出たMiss.D.Weddellの感情の吐露に戸惑い、気恥ずかしい思いをしたし、それ故に彼女に対して或る種怒りを覚えた。掟破りでもあるわけだから、なんでこんな手紙を貰わねばならないのかと思い、さっさとごみ箱に投げ捨てたのだ。自分には今がある。それしかなかったのだ。過去を振り返るほどの余裕もなかったからでもあるが・・。

    だが、その彼女からの文面に書かれてあったことは、意表を付くものであり、私は一瞬うろたえた。真に彼女は私を‘知っていた’ということになると気付かされないわけにはゆかず、微かにヘェッと一瞬胸打たれた覚えはある。私は自分というものがまだ生きていないにしろ、これからどう生きてゆくのだろうかと案じる思いを抱いていたのは確かだ。彼女の言うとおりなのだろうかと・・。そこには<貴女の人生は、これからも尚、大いに疾風怒涛の人生であるだろうが、どうぞ果敢に生きていって欲しいと、私は願っております>と、そのように確か綴られていたように記憶している。それは、私宛への‘遺書’であった。ほどなくして、私のanalytical-sisterであるセーラから封書が届いて、Miss.Doreen.Weddell がオックスフォードの地で逝去なされ、皆で葬儀を営んだ旨、報告されてあった。一瞬我が身を呪った・・。

    いつだったか、1983年頃かしらに私はMrs.Margaret Rustin(マーガレット・ラスティン)から長文の手紙を戴いたことがあった。Dr.メルツアーとMrs.M.ハリスご夫妻を主としたご尽力の甲斐あってか、イタリアの地でもいよいよタビストック・クリニックに似た児童サイコセラピスト養成機関を設けることの機運が高まり、その講習会が開催されたとかで、それもかなり盛況であったようだが。Mrs.マーガレット・ラスティンがその帰途の飛行機の中で、日本に帰国して以来なんの音沙汰もない私を気遣ってくださっておられたようで、ふと思い出されたとかでおたよりを綴ってくださったのだ。手書きで、彼女の家族を始めとして、身辺雑事のあれやこれや取り止めもない近況をお伝えしてくださったのだが。私は返事をしたためることなぞとても出来なかった。まだまだ私は帰国して自分の立ち位置が定まらずにいたから。なに一つ報告しようがない。帰国前にMr.John Bremner(ジョン・ブレンナー)は私に言った。<If you are really efficient,people will appreciate you。>と・・。(これを翻訳すれば、「貴女の有能であることを日本の人びとが解かってくれないわけはない」といった彼のあたたかい励ましになる。) でも、私はそうは思わなかった。当時もそうだが、今尚そうだ。それらの事情を彼らに説明するにはあまりにもことは複雑というか、言うなればこの不毛な土壌に鍬入れもままならず、格闘を強いられている事態を彼らに訴えることなぞ私の美意識が許さないといった調子で、ひたすら沈黙の歳月が流れていった。いつか楽観を語れるまではと・・。

    つい最近のこと、タビストックからお戻りになった脇谷順子先生が、Mrs.ラスティンから「ぜひチズコに会うように」と勧められてということで、お越しになられた。懐かしいお話がいっぱいいっぱい聞けた。ちょうど私は、ロンドンから親宛てに出した手紙を整理していたのだが。私がMrs.マーガレット・ラスティンからプライベート・スーパービジョンを受けたのは、児童養護施設【ホリス】に居た頃で、初めてのセッションの日時は1973年11月23日ということが両親宛の手紙から判明した。それから、彼女のご自宅の最寄りの地下鉄の駅がどこだったか、もはやうろ覚えだったのが、Kilburnで、Swiss Cottageから3つ目北の駅だと教えられて、思い出した。嬉しかった。さらに脇谷先生が後日Mrs.ラスティンに、この私のロンドンからの両親宛のたよりがWEBサイトにアップロードされたとメールでお伝えしたようで、瞬時に彼女から返信メールが届いて、「覚えてますよ!」とのことだったとか・・。憶えば、【ホリスの子どもたち】を共有できた唯一の人だった。最後のセッションで、<辛かったでしょうが、いい体験をなさったですね>とねぎらってくださり、<ご一緒にお仕事できたことを嬉しく思います>と丁重におっしゃってくださった。
    その後も尚、タビストックでの臨床コースの研修期間中にいろいろとご指導を受けたわけだが、彼女の態度は一貫しており、いうなれば先ほどの「ぶれない・いい気にさせられない・うわつかない」、実にそんな具合だった。これはやはりかなり稀有な人格的資質と云っていいのではないかと思われる。

    いろいろと想い出すにつれて懐かしさが高じて、どうにかして彼女の姿を一目見たいとパソコンでネット検索をしてみた。そして運よく、唯の一枚だが、彼女のご主人のProf.マイケル・ラスティンとご一緒の【University of East London】での講演会場での小さなスナップ写真をゲットした!彼女の全体の楚々とした静謐な佇まいは昔どおりそのままで、そのお顔がやはり、ああやっぱりそうなのだ、メラリー・クラインの目元にあるものと同じものがあった。あのペーソスの刻印なのだ!安堵した。

    あの当時、タビストックの伝統に列なりたいと私は願ったが。それがペーソスのスティグマ(stigma/烙印))をこの身に受けることだったとは!タビストックを去るに当たって、「自分は自分に何をしたんだろ?!」と思ったものだが。今にしてようやくそれを知るに至った。それを敢えて‘名誉のしるし’と思おう。実に感慨深い。

  • 2011/10/15 対話(ダイアローグ)の風景

    或る時期に趣味で写真を撮り始め、しばらくはあちこちと花のおっかけに忙しく、ごくごく素直な写真を喜んで撮っていたものだ。それがまったくの偶然に仕掛けられて、多重撮影に凝り始めた。そのきっかけというのが実に志賀高原への写真撮影ツアーに参加した折の出来ごとにあった。

    湿原地帯を三脚を担ぎながら散策して回り、辺りの沼地の風景やら湿地の花々やらを撮影した。翌朝は朝焼けを撮影する予定であったから、まだ朝靄の漂う薄暗い中、戸外へと皆で繰り出した。徐々に辺りがしらみ始め、朝焼けの撮影は時間との勝負だから、やや焦りぎみで、バチバチと撮りまくっているうちにすっかり辺りは明るくなっていた。疲れていたものの、澄んだ空気を胸いっぱいにやれやれと満足して戻ってきた。それから帰宅して後に、「ラボ」にポジフィルムの現像を依頼して預けたわけだが。そし、戻ってきたフィルムをルーペで覗き込んでみて、愕然とした。まるでなにがなんだが目の前のものがハチャメチャなのである。皆目わけのわからぬシロモノでギャー!だったのだ。こんなの撮った覚えがない。だが落ち着いてよくよくみると、湿原で撮った写真と翌日朝焼けを撮ったのがダブっているのだと判明した。早朝のことで、頭もいくらか茫としていたのだろう。使用済みのフィムを新しいフィルムと間違えて装填してしまっていたらしい。知らずのうちに「多重撮影」をしていたことになる。それもまるで偶然の為せる‘いたずら’ともいえる結果で。だがよくよくルーペを覗くと、ダブった映像が構図的にもまとまりをもって見えなくもないというのが幾つかあった。それだけではなく、意表を付かれて茫然としながらも、なにやら不思議な感覚を味わった。それが決して悪くないのである!例えば、朝焼けでほのかに赤みを増した山並みの真上に湿原に咲いていた黄色いマルバダケブキの花が横たわっていたりだとか。ワタスゲの白い穂が風に揺れる湿原の水溜りに朝焼けが映り、灼熱を帯びて輝いていたりする。ヘェー!って感嘆し、なんとなく思わず内心シメシメ!って気持ちになっていた。この摩訶不思議さにすっかり魅了された。
    それからは、この面白さに味を占めたというか、合成写真に凝った。別々の映像をフィルム同士重ね合わせ、印画紙に焼き付ける。別々のところの別々のものたちが邂逅した!志賀高原の長池のエメラルド色の水面にあでやかな橙色のコオニオリが咲き乱れてたり・・。多摩動物園で撮ったマレーグマが独りぼっちで所在無げであまりにも殺風景で哀れなので、赤く熟れて色づいた実のなる樹に重ねてみた。ちょっと熊さんの無聊を慰めたような気分で喜んでみたり・・。

    さらには多重撮影の方も、一歩踏み込んで、偶然に頼らずに、より意図的に構図をあらかじめ計算してフィルムに別々のものを写すやり方を試み、すっかり没頭した。井の頭公園に1本のセンダンの巨木があった。晴れた晩秋の青空にすっくと立っていて、大きな黄色い実がたわわに実っている。それを写した後、さらに近くの池を泳いでいた水鳥たちをそこに写し込んでみたり・・。結果はまずまずで、そのうち何枚かは構図的に見られるものであった。

    此時期に最も興奮したハプニングは、西伊豆のヒラマヤ桜を12月初旬に撮りにいった折のことだ。伊豆の海を眺望できる高台にある。知る人ぞ知るヒマラヤ桜の名所である。ちょうど折りよく、濃厚な紅がかったピンク色であでやかに咲きほこっていたヒラマヤ桜を撮り終えた。やがて海辺への道を下りてゆくと、そこに砂浜があり、明るい陽だまりのなかでカモメの群れがひなたぼっこしていた。もうこれを逃す手はないと、夢中でヒラマヤ桜を撮ったフィルムを装填しなおし、被写体のカモメたちにレンズを向け、接近を試みた。悪くすればヒラマヤ桜の映像が台無しになったかもしれないのだが。もうためらっている余裕もなかったからシャッターを押し続けた。そのうちカモメが私の存在に気付いて、ぞろぞろ遠のき始める。その後を三脚を抱えながら、忍び足で追いかけるが、ついに彼らも邪魔が入ったことに嫌気がさしたのだろう、一斉に羽ばたきをして飛翔し、大空へと消えていったのだ。
    真にその一瞬に夢中でバチバチ撮りまくった写真のなかで、辛うじてどうにか構図としてはまとまりよく撮れた一枚が私のHPのトップページを飾っている。他のページに挿入した画像もそのときのものだ。それ以来、多重撮影の面白さに憑かれていろいろと試みてはみたものの、妙なる偶然の仕業といった、衝撃を覚えるような類いのは少なくなっていった。フィルムを無駄にすることが多いこともあって、いつしか断念する羽目に・・。

    だが、もはや素直に花でも風景でもそのままをそのままに撮るということには物足りなくなる。やがて購入したばかりの一眼レフデジタルカメラを手にして、多重撮影に近い視覚的効果を探り始めた。
    例えば、原宿界隈に立ち並ぶビルの窓ガラスは外の通りを行き交う人と内のディスプレイの品々が交錯するし、面白い映像になる。それから、べランダの水鉢の水面はさらに透明感があり、傍らのシクラメンの鉢が水の面に写るとピンクの花の色も結構鮮やかで綺麗に出ると判った。水の中のメダカたちの動きで揺れたり、波紋をつくったりに呼応して、花たちは微妙にゆらぐ。光と闇とが戯れて、水面は一瞬もジッとしていないから、シャッター・チャンスというのも難しかったわけだが。意外性もあり、華やぎもあり、ご満悦だった。だが、それら写真が作品としてどうかということになると、印刷の過程で微妙な色調整が必要で、画像処理ソフトを使ってそこそこの出来栄えに仕上げてみたものの、どうも今ひとつだなという感がした。つまりは、やはりとことん光と闇の微妙な織り混ぜ方が計算できないのだ。写真の技術力なぞ元々皆無なのだから致し方ない。遊びもここまでと観念した。

    万華鏡も一時期ひどく凝って、集めたこともあったが。衝撃という点では、この多重撮影の絶妙な効果には到底かなわない。

    詩人・吉増剛造氏が、彼の言語的営為の延長上としてどうやら写真に凝っているようで、風景の多重露光を作品化している。当初は手持ちの旧式の愛用の写真機で気侭に撮ったものらしいのだが・・。かなり昔々になるのだが、たまたま或る画廊で彼の撮った写真が額装され展示されているのを見かけ、立ち寄った。彼にはそういう趣味があったのかと、関心を惹かれたものの、本人が面白がっているのは伝わるものの、作品としてはどうにもツマラナイといった印象なのだ。それらモノクロの作品たちの前を素通りしただけ。ただちょっとカメラワークで悪戯(いたずら)をしてみましたって、それだけじゃどうもねって感じなのだ。その実験的試みの意図するところは斬新であっても、写真芸術としての作品という観点からは、見る人に訴える意外性・衝撃性をもたらす何か決め手を欠いている。所詮素人の慰めごとの域を出ない。マックス・エルンストのモンタージュ技法みたいに、奇を衒うことでもなかろうけれども。どこにでもある風景といった素材がただ物足りないというだけではない。ツマラナイと感じさせたのは何故だろうかと訝しく思った。
    それで、ああ、そうかと思った。イメージ映像がそれぞれてんでに拡散していて、どれもお互い同士が惹かれあい、切り結ぶだけの訴求力を持たない。互いの‘対話(ダイアローグ)’の声がどこにも聞き取れない。モノローグのブツブツの呟き程度か、もしくは沈黙か、なのだ・・。楽しい‘語らい・お喋り’なぞなんら聞こえてこないことが、心惹かれない、つまり‘ツマラナイ’理由だとガッテンがいった。

    緊張を孕む対話(ダイアローグ)が必要前提条件なのは、まさに精神分析こそがそうであろう。
    精神分析という場の言語は、どこまでも対(ペアー)の言語なのである。呼びかけがあり、それに応えるといった応答性(call&response)の中で言葉は息づき、いつしか形づくられてゆく。それは‘自分次第’と‘相手次第’の両方が激しく錯綜する。まさにカメラの多重撮影の場合のように、フィルム上に光と影のせめぎ合いの痕跡にも似て、お互いを写し込むといっていい。50分間というセッションのなかで飛び交う言葉たち。それらが光ともなり闇ともなって、時には意表を付いたかたちで思いも寄らずということもあろうが、だが多くの場合はごく自然ななりゆきのなかで、隠れたものを忽然と生起させる。こころが狙うのは、隠れたものがあらわにされることだけ。啓かれるとはそうしたことなのだ。‘未だ生まれざるもの’たちが生み出される。嬉々として、ときにはちょっぴり渋々ながらかも知れないが・・。それがメルツアーのいうところのVerbal-intercourse(言葉的性交)の眼目なのだ。

    精神分析のセッションにおいて、「言葉が、光りともなり、闇ともなる」とはどういうことだろう。 それを精神分析上の技法論として展開せんと多くの人はこれ迄にも挑戦してきた。それに成功した人はおそらく皆無に近いのではないか。本来人と人とが‘対’としてあり、それぞれが転移・逆転移として切り結ぶなかで絶えず目まぐるしく動くさまに眼が付いてゆけないのだ。実際のところ、カメラで多重撮影しているとき、フィルム上に写し込まれた光と影の乱舞の跡を、その瞬時の化学的変容を覗けるわけもない。空中アクロバットをしながら、言葉の乱反射の軌跡を追い続けようと眼を凝らすわけだから、なかなかにしんどいものだ。
    だが、挑戦は尚続いてゆく。「私はかく見た!」と精神分析の場でのダイアローグの極まらん先に精神分析の可能性を夢見た人たちがいる。辛うじていえば、ビオンの【夢想】であり、メルツアーの【Counter-Transference Dream逆転移夢】である。この伝統を担う己の身が虚しくあってはならないと自戒する。

    この歳月を経て依然として私の中にこだわり続けるものがあるとすれば、‘未だ生まれざるもの’たちのことだ。それらは名付けられぬまま、つまりは聞かれることも語られることもなしに、消尽してゆくものたちである。憶えば、それらはまさに私がボツにしたフィルムの残骸の山にも重なるのだ。それら、何も現れない、何も形を得ていない一枚一枚のフィルムを思うとき、一回一回の分析セッションのなかで語られた言葉たちにも重なる。‘生まれぞこない’のいのちたち。光に照らされることもなく、闇に浮き上がることもなく、彼らの命脈は断たれ、もはや届かぬ奥深い心の地底へと沈んでゆく。もしかして私の言葉がその光ゆえにもしくは闇ゆえに、生まれいずるものたちをはからずも潰すこともあったろうと思えば、内心忸怩たるものがある。ここに改めていっそう苛烈にdisciplineが求められる。

    昔ロンドンでだったか、ふと或る興味深い本を手にした。確か【テート・ギャラリー】での書籍コーナーであったかも知れない。『Discipline in Art』という題だったかと記憶しているのだが。アート(芸術)におけるdisciplineを真正面から論じているというのがなかなかに示唆に富む。我が身に振り返って、さて、精神分析においてのdisciplineとはなんだろうと問うとき、それは戒律・掟といった外側から規制する何かではなく、自分の内側において自分の立ち位置を揺るぎないものと直覚する、そうした内部感覚に依拠するものと考える。自分が自分の責任において自分を引き受けられるといったような・・。それも責任の引き受ける対象は己自身でもあるけれども、同時に己が抱えている相手でもあるとしたら、‘自分次第’と‘相手次’とがまさに切り結ぶところで綱引きをしながら、宙吊りになったままで、尚も敢えて応答し続けてゆくことしかないでだろう。なにやら戯画的なイメージだが、それがメルツアーのいうところの【sincerity (誠心誠意)】であり、かつ【Counter-Transference Dream】というものであろうかと思われた。

  • 2011/9/30 ビオンについての覚書

    我らがビオンについて、かつて彼が幼少時に吃りで悩まされたとは聞いていない。でも何故かしら、彼が吃りだったかもしれないとひょいと頭に閃いた。意識と無意識の隙間に挟まり、にっちもさっちも身動きつかない、宙吊り状態。何かものを言おうとすれば、もう吃るしかないのだ。彼の母親は「わけのわからないことばかり言ってないで!」と、息子をよく叱ったようだ。つまりは「きちんと喋りなさい!」ということだが。おそらくはきちんと喋れないのは言語的レベルの問題ではなく、彼の場合、‘思考’が吃っていたからだろう。意識で論理的な筋立てして喋ってる脇合いから無意識のあれやこれやがカットインするのだ。収拾が付かないまま。かくしてぶきっちょでぶざまな己自身に彼は幾度となくうちのめされたろう。で、結局のところ母親の言を取り入れて「きちんと話すこと」にしたのだろう。詰まりは‘調教’。馬の調教にも似て、鞭に追われて、勝手に体をピクッなどさせることすらも断じて許されず、なぜならばそれは見苦しいdisgracefulのであって、断じて「大英帝国」の未来を担う良家の子弟には許されなかったのだから。誕生地のインドを離れ、故国イギリスで辛くないはずもない寄宿制学校での生活になじむにつれて、野心家の彼は順応した。結構うまくやったと見受けられる。だが彼はどこまでもぶきっちょでぶざまな自分につきまとわれたであろう。彼がついに精神分析の道へと踏み出すとき、オックスフォードの面々は誰しも眉をひそめたとか。精神分析など外道とやら、邪道とやら。だからこそ、なおのこと彼は惹かれた。それで自分の身の置き所をようやく察知し得たのだろう。それからミセス・クラインとの遭遇がある。彼女とのパーソナル・アナリシスはトラーマ(外傷)となり、乗り越えるのに10年掛かったと彼は回想している。だが真相なぞ誰も知らない。

    一瞬一瞬の感覚はそもそもが断片であり、思考過程においてそれらは統御される。まさに亀裂を穴埋めし、綻びを繕うような作業だ。その修繕した後が見えなければ見えないほどいい。それは、吃る自分には、絶えず「訳の解んないことを言ってないで!きちんと喋りなさい!」と言われ続けるようなものだ。生涯をとおして、一人前になるとは‘調教’されることなのだ。つまりは飼い馴らされてゆくこと。しかしながら、吃り吃りでしか語れない事柄がある。「無意識」というやつだが。それが結構巷では流暢に語られている。当然ながら、真実味のない、陳腐なシロモノとなってしまう。ビオンは否応もなく「きちんと話す」べく調教された。そして、ひとまずそれが自分にも出来たと満足したところで、堂々誰の眼を憚ることなく、吃りに戻った。天才という名誉ある噂も彼が為遂げた「精神分析」の‘模範解答集’も総て投げ打った。その結果が、彼が10年掛けて書いたという彼の最晩年の書「メモワール・オブ・ヒューチャー」である。‘小説’ということにはなっているが、まさか万人受けするなどとは彼も思わなかっただろうが。誰ももはや彼に「吃らずにきちんとシャベリナサイ!」とは言わなかった。痛快だったろう!精神分析の未来に貢献しているという並々ならぬ彼の気概はどうにか感じられはするものの、もう訳がわからず困惑し、茫然自失する我らを尻目に、‘永遠の謎解き’を遺したまま彼は逝った。

    人は否応もなく‘時代の子’だから、彼が最晩年の10年を掛けて書いたという小説「メモワール」にしても、あの時代の文壇的状況を背景にして考えるべきと思われる。特に1965年にノーベル文化賞を授与されたサミュエル・ベケットとの因縁に依るものではないかと推察される。ベケットにしても、ルイス・キャロルやら、プルースト、W.B.イェーツ、そしてJ.ジョイスを追随した。それらの小説家たちが試みた或る言語実験にビオンも列なりたいと欲したのではなかったろうか。それは、メタ言語とも呼ばれているらしいが。それは、彼のかつての懐かしき古巣への帰還でもあったろう。つまりは‘吃り’的思考、つまり意識と無意識の間隙に宙吊り状態に居座り、そこを己の立脚点にして、そこで思う存分に空中アクロバットを演じてみせたということではなかったか。

    ハチャメチャのおふざけの限りを尽くし、羞恥心と自己嫌悪を噛み殺し、公然と猥褻・自慰すれすれの露悪癖。語り得ぬものを語ろうとするしどろもどろの狂おしい道化のお喋り。その力技に人は耐えられず眼を背けるにしても、驚異の眼を奪われる。ああでもしなければ己を語り得たと思えなかった彼固有の‘業苦’をそこに感じるが。敢えて語ろうとすれば吃るしかない事柄なのだから、口をつぐんでは片付かないと彼は思ったのだろう。解る人には解ってもらえるだろうなどと甘えた楽観が彼にあったとは思えない。誰しもがどう理解していいものやら戸惑って、結局は【メモワール】は読んでも読まなかったことにして沈黙を守り、体面を保っているというのが殆どだろう。メルツアーを始め、ほんの一握りの人のみが大真面目になって謎解きしてる。それにしても、誰もビオンとベケットとを関連づけて語ることをしないのはむしろ奇妙に思えてならない。

    ビオンが彼の著書のどこかで確か【想像上の双子imaginary-twins】という言葉を使っているが。彼らがまさにそうだと思えてならない。彼らの邂逅は1934-35年の間で、ビオンはタビストックにいたが、まだ精神分析医の資格は取得してない時期でもあったし、自由気侭にベケットとは交流したようだ。医師・患者の役割を超えて、意気投合したらしい。実に彼らほど似た者同士もいない。氏素性はともかく、まずは母親との関係からしてみれば、彼らのどちらも‘できそこない’の子どもであったという点。それゆえに発奮したのかどうかは知らないが、どちらもがその後学業成績でもスポーツでも抜群に秀でた成果を修めている。博学でどちらかというと衒学的な凝り性を高じさせていったという点も似てる。そのまま学者になる道も大いにあったろうに、どちらもがとことん生まれ落ちた瞬間から‘倦んでいる魂’だからして、いずれ何もかも総てが飽き足らなくなるのである。奇抜さ・奇矯さを偏愛することになる。ベケットの作品の主題は、「内的自我を追究しようとする外的自我の果てしない模索」なのだと、英文学者で演劇評論家の故高橋康也氏は語っている。つまりはビオンのいうところの【複眼的視座binocular-vision】というわけだが。それはややもすれば、まさにハチャメチャのおふざけになりかねない。単純明快は退屈なのだ。意味なるものが際限もなく重層的であることかつ乱反射していることが言語遊戯の狙いとなる。彼らの博学的な引用癖をもってすれば、お互いの仲間内でのみ通用する符牒のやり取りが横行する、彼らだけの‘秘密の花園’に良くも悪くも憩う人たちなのだ。うーんと唸って頭を抱えながらも、クスクス笑いを噛み殺しているような具合に・・。

    自分を書いたものを誰かに読んでもらいたいと思って人は書くんだろうか?やはりそうなのだろう。ベケットにとってビオンが、ビオンにとってベケットがそうであったように思えてならない。ベケットの作品には頻繁に男同士二人が対話している場面が出てくる。口達者というか、駄洒落やらお惚けやら肩透かしやら、延々と喋り・駄弁(だべ)りが続くのだ。あの二人だったら、かくありなんといった感じがするのだ。

    ベケットの作品をビオンが生前愛読したとも聞かないし。それにビオンの【メモワール】にしても、ベケットに献呈されたものとも聞かないのだが。それは、まるで双子同士が第三者には(親にすら)皆目判らない言葉でペチャクチャと会話するという話にも似て、あの二人だけが意思疎通可能な言語領域を共有できたと思える。それを彼らだけの「言語遊戯」として愉しませておいていいとも思えない。
    勿論、「あなたもどうぞ・・」と、一応我々も誘われてはいるのだが。あの二人が死後の世界でまみえたならば、お互いの作品を見せあって、クスクスかゲラゲラか、或はカッカッとやら、大いに笑いあったのではないか。そのうちにジワーッと涙するかもしれない。どちらも本来はペーソス(受苦)の人なのだから。そんなことを勝手に夢想して、私は秘かに愉快に思う。

    かつて1970年代のロンドンにおいて、我らがビオンを【タビストック】の人間たちはこぞって‘精神分析の未来’として仰ぎ見た。1976年頃だったか、彼がタビストック・クリニックに招聘され講演にお越しの折、私は彼を見た。実に奇妙奇天烈な印象だった。人々の熱狂を尻目に、彼はまるで場面緘黙か、もしくは失語症にでも陥ったふうだった。長い長い沈黙の後、ようやくに口を開いた彼が語った言葉は、「I am sick and tired・・」ということだった。翻訳すれば、<わたしは、ほとほと嫌気がさしている・・>ということだ。彼が言及したところの事柄は流派間の亀裂・葛藤やらで精神分析がいまや混迷を極めているということだったけれど。まるで私たちその場の聴衆は、長老格の彼にお小言を頂戴したみたいで、ひたすら身を固くして恐縮していた具合だったけれど。まるで自分はその埒外に居る人みたいな物言いではないかと、ちょっと私は彼に違和感を覚えた。

    彼が嫌気がさしているのは、精神分析がアカディミズムとの摺り合わせに功を奏したお蔭で、世間並みの格好付けには一応成功したものの、臨床の場では精神分析が野暮で退屈で陳腐なものになりさがっているということであったのではなかったか。そうだとしたら、その流れにまさに先鞭を付けたのは彼であり、彼こそが皆の前で懺悔してしかるべきではなかったろうかと、私は思うのだ。
    もっともその当時、1976年頃だったか、彼は例の小説紛いの【メモワール】の続きの執筆に没頭しており、そのハチャメチャ振りには至極ご満悦であったろうから、彼の臨床自体がもはや退屈以外のなにものでもなかったろうか。この比較そのものにちょっと無理があるやも知れないが・・。

    かつて「きちんと喋りなさい」と云われたとおり、調教されて、みごとにそれをなし遂げたのではあったけれども。どうもそれに自分の気持ちがそぐわない。晩年頓に嫌気がさしたんだと思わざるをえない。

    彼にしてみれば、確かに多くの人の歓呼の求めに応えて、精神分析なるものの解明を果たした。今やそれは「模範解答集」として出回っている。精神分析学徒は誰しも、それをなぞるのに懸命だ。だが、本音としてのビオンは、自分としてはそれがそうだとは言えるけれども、本当のところ自分は<それを知らない>と言わざるを得ないということではなかったのかと思われる。‘絵に描いた餅’ならばいくらでも語れるが、自分はそれを食べたこともないから、本当は知らないのだと、彼は言いたかったのかも知れない。我々が彼は知っていると思っている事柄を彼本人は知らないとしたら、その知らないことを知ろうとすることにこそ我々の<精神分析の未来>はあるのだし。彼の築き上げた業績にケチを付ける気は毛頭ないのだが・・。

    本当に彼が懊悩するところのものを私たちに聞かせることに、なぜあのように口ごもり、言い淀んだのだろうかと訝しく思う。どのような自己乖離やら自家撞着やらがあったのか。<自分は問題を抱えている、それはあなたがたの問題でもある>と、もしも彼が語ったならば、それこそがまた精神分析の新たな歩みとなっただろうに。確かに、もしも自分の抱える問題がもはやあなたがたの問題では有り得ないと彼が思っているとしたならば、口を噤むしかないし。敢えて語ろうとすれば、吃るしかなかったろう。或いは、それはもはや意味不明の喃語みたいにしか聞かれまいと彼は思い、それに彼は耐えられなかったということだろうか。
    実際のところ、彼の臨床が無味乾燥になっていたとは思わないけれど。もしかしたら、そうなのかも知れない。我こそはと云った、とびっきり頭脳明晰な分析の学徒が彼の周りに集まり、ビオンの一言一句に‘注解’をほどこすことに野心満々の‘押しかけ女房ならぬ’、自称弟子たちには不自由はしなかったろうから。しかしながら逆説的に、彼はそれが退屈だったろうと思われなくもない。

    「ほとほと嫌気がさしている」といった言葉は、あっちにもこっちにも飛び火して、彼はまるで‘火達磨’みたいに思えた。火達磨なら火達磨らしく、大暴れしても良かったのに、と私は思う。何をそんなに不自由な思いをしているのか。人々の嘆きをよそにイギリス本土を離れ、カルフォルニアにまで逃避行して、ようやく自分の頭で改めて一から考え直してみようと自由を獲得したというのに・・。‘Second Thought(再考)’こそが大事なのだ、と彼が折々に人々に強調しているとおりなのだが。彼本来のぶきっちょでぶざまで覚束ない吃り吃りの思考にどれほど愛着していたか。自分としてはこんなふうにきちんと論理明晰なことばなんぞでは喋りたくはない。筋をズダズダに切り刻み、ハチャメチャにふざけ散らしてみたいという誘惑を秘かに内心抱いていたに違いない。自らの【模範解答集】に嫌気がさしていて、赤ペンを入れては加筆訂正したのだろう。そしてグジャグジャにした。どんなに痛快だったか!

    猥雑で猥褻やらの盛りだくさんの駄洒落やら、時には罵詈雑言やら、なんでもありで・・。そう思っても長い習慣ゆえに、そうしようとするとつい吃るしかない、はてには失語症に陥る彼がいたから、そこから遮二無二彼は飛躍を試みた。吃りから‘腹話術師的思考’を解明したというべきか。その結実が彼の小説【メモワール】であったろう。そして彼は、ようやくにして紛れもない‘いのち’を得たのだろう。

    自分という内なる意識と無意識の間に‘橋がかり’を架けて、舞台裏で出番を待っているたくさんの内なる‘未だ生まれざるいのちたち’を舞台へと押し出し、スポットライトで光を照らし、そして声が聞かれる、そうしたことがようやくにして成就されたのだから。彼は晩年さぞかし生の充溢に包まれたであろうと思われるのだ。
    それこそが<精神分析の未来>として、彼が夢見たものだとしたら、この続きはあるのだろうか。それは私たちが彼から手渡されたバトンとはなんだったのかを問うことだろう。それは、「わたしがわたしとしていのちを得る」とはどういうことなのかをどこまで夢見ることができるのか、そして生きられるのか、それが問われているように思われる。

  • 2010/09/14 白い稽古着の女の子

    その女の子がどこから来たのは知らない。蕁麻疹の薬をもらいに立ち寄った近くの皮膚科医院の待合室に彼女は立っていた。白い稽古着に身を包み、白帯をきりりと締めている。「極真館」との青い刺繍文字が威光を放っている。細身で小柄、10歳ぐらいだ。思わず「恰好いいわねえ・・」と声掛けた。「空手?合気道?」どちらかと尋ねると、「空手・・」とぶっきらぼうに返答あり。なんて羨ましい!と溜息混じりに思わず私の口から漏れ出る。彼女は満更でもない顔付きで、きりりとした表情を崩さない。あとで推量するに、おそらくはそこの医院の女医さんのお嬢さんで、母親の診察時間が終わるのを待っていて、母親の運転で空手道場に車で送ってもらうところなのであろう。自分の娘に空手を習わせる母親というものに、いつにない激しい羨望を抱いた。いいなあ、いいんだあ!「眠ってた子が起こされた」みたいに・・。

    幼少時を振り返ると、私にはお稽古事に通うのに母親に送り迎えしてもらった記憶はない。確かあの当時、阿見小学校にいた10歳ぐらいの頃だが、ご近所では子どもらのお稽古ごとが流行っていた。ピアノを習うのが主流だったが。姉は人形制作のお教室に通っていたし、妹は日本舞踊。そして私はというと・・何もなかった。私をチー坊チー坊と呼んで可愛がってくれた担任の日沢先生という男の先生が私に尋ねた。「なにか習い事したくはないのか?」と。大して深くも考えず、「英語を習いたい・・」と私は返答した。それから間もなく、英語のアルファベットの書かれた練習長が手渡された。それら異国の文字をなぞり書きつらねると、彼が添削してくれた。それが事の始まり。舞鶴へと転校するまでのしばらくの間、日沢先生とのノートのやり取りがあったように記憶している。あの時もしも「空手を習いたい」と私が言っていたらどうだったかしら。そんなことを夢想する。私はおそらく今の私にはなってはいないだろう。どちらがどうともいえない。この道こそが運命なのだから。そう思いながらも、稽古着姿の女の子に己自身の生の‘未来形’をふと重ねてみたいような誘惑を一瞬覚えた。「あなたはわたしであったかもしれないのよ!」と胸の内で呟く。「健やかであれ!」という祈りの言葉を添えて・・。

    現在の私は、お稽古事というのとも違うけれども、体力づくりにスポーツジムに通い、パーソナル・トレーナーに付いて筋トレのレッスンに励んでいるところ。それでふと思ったのだ。もしも筋トレが辛くなってさぼりたくなったならばの話だが、あの白いお稽古着の女の子と車で送り迎えしてくれる彼女の母親を心に呼び起こそう。そして、「さあ、行かなきゃ!頑張ろうね」って、自分に掛け声を掛けるのだ。

    そう言えば、不意に蘇った記憶が一つある。遠い昔、ロンドンで、当時始めていた教育分析(パーソナル・アナリシス)に不満が鬱積していて、分析セッションを無断欠席したときがあった。鬱々とした思いの中に不意に母親の顔が脳裏に浮かんだ。そして取り敢えず何かしら心の向きが一瞬変わった。そしてセッションに舞い戻った。それは双方にとって難しい状況にあったのは間違いない。肝心なのは「チャンスをもらうこと、チャンスを与えること」、そうした忍耐と寛容を私の母親は無言で私に諭したのではなかったかと思う。実際のところを言えば、ごねてる私を諭し諌めてくれたのは、あの当時のタビスットクの指導教官tutorだった懐かしき「Mrs.マーサ・ハリス」その人なのだが・・。

  • 2010/08/03 童心という探しもの

    私は何か‘探しもの’をしていた。獏としたことばが心のうちにまるで刺さったままみたいに疼く。こうした場合、私という‘掘削機’は無意識に心深くグリグリと沈潜し、ことばの鉱脈を当てずにはいられない。いかにも「ここ掘れ、ワンワン!」といったふうに。それも無意識に‘嗅覚’があればの話だが・・。それが「童心」ということばに端を発していたのは明らかだ。

    NHK教養番組「こころの時代」<童心ひとすじに>の中で小宮山量平氏(編集者・作家)が、故郷信州・千曲川の畔で川遊びに戯れた幼少期の話をなさってた。彼の興した【理論社】は、『せんせいけらいになれ』をはじめとして、作家・灰谷健次郎のすぐれた著作を多く輩出している。灰谷健次郎は、「こどもの楽天性」を謳う。あかんたれの先生でしかなかった己自身がそれでどれほど救われたかと率直に吐露する。時として折れそうになる己自身のつっかい棒として、「諦めんと!もう一度やらんかあ!」と叱咤され励まされて・・。そして今、彼のこどもたちに、彼の著作の中で、私は出逢う。ごんたやなあ、やんちゃ坊主やなあ・・!と呆れながらも。クスッと忍び笑いを堪えられない。もしくはジワッとぬくもりに胸を衝かれる思いをしたり・・。今どきのこどもたちは「いのちが薄い」と言われて久しい。だがここにいるこどもらの骨太なこと!かつ繊細なあたたかみはどうだろ!灰谷健次郎がこどもらが書き記してくれた詩のかずかずを己自身の‘いのちの羅針盤’として生涯手離さなかった所以がわかる。

    そして翻って私自身を振り返り、自分のなかに「童心」を探りあてようとして一瞬戸惑った。手応えがあるような、無いような・・。妙に気落ちした。いつもいつも捜していたような気がする。「元気な男の子」を!かつて私のトレーニング・アナリストのMiss.ドーリン・ウエデルが折々に口にしていた[「the boy part of yourself」(男の子の部分のわたし!?)というわけだが・・。彼女は、もしかして私以上に、それに信頼を置いていたのではなかったかしら。あれあれ、どこに行っちゃったのかな?

    つい先頃、「渋谷区中央図書館」が新装オープンした。一階の「児童図書コーナー」もなかなか居心地がいい。小さなテーブルの小さな椅子に腰掛けてみた。傍らには小さなこどもらがクレヨンでお絵画きしてる。いつかここに戻ってきたい・・、そんなふうに思っていた場所ではあった。手当たり次第にありったけ絵本を読みあさる。この贅沢さがたまらない。でも本当をいえば、眼はあちこち彷徨いながらも、私の‘迷子になった童心’を心の内側で捜していた。古いアルバムを開けば、案外もしかしたら「あれ、あったぁー!」と簡単に見つかるやも知れないと期待するみたいに・・。

    そのうちに書棚の上の子ども向けに編まれた詞華集の一冊に眼が留まる。その挿絵が実にいい。気取りがまるで無く、素朴で、線が活き活きと天衣無縫に踊っている。そのイラストレーターの名前は「奥勝實」。早速戻ってからパソコンで検索すると、なんと近くの千駄ヶ谷のギャラリー・エフで「銅版画展」を開催中とあった。この巡り合わせを逃す手はない。早速翌日訪ねてみた。ふらっと気紛れに立ち寄った風情で。でもほんとは内心思いつめていた。なにしろ探し物は[童心]だったのだから・・。その人は「元気な男の子」がそのまま大きくなったような趣で、快活にきさくにお喋りしてた。壁に掛けられた銅版画の作品群は勿論、かなり高度な技量と典雅なセンスとが窺われ、素敵だった。ところがそれ以上に眼を奪われたのは、彼が手元に持っていた保存用ファイル。その中に非売品の‘宝もの’がぎっしり。こどものなぐり書きにも似て・・無邪気さに溢れ、楽しいったらないのだ。ついつい「ねっ、ねっ、おばちゃんに、この絵くれない?」って、おねだりする気分にさせられた。彼が言うのに、「こどもが一番のライヴァルです・・」って。そういえば、私も1980年代の或る時期、夢中になって線描画に没頭していた。彼に「画いてごらんなさいよ・・」と励まされた。私の中の‘こども’がついに蘇るかな。おたおたする臆病な私が引っ張り上げられるかしら。そうだ、また描いてみよう。ペン先からぞろぞろといのちが迸り出てくるような、あの感覚にまた出逢えるやも知れない。

  • 2010/07/15 聖霊降臨・炎のような舌

    人はある瞬間に遭遇した言葉に突き動かされ、付き従うことがあるのではないか。不意を突かれ、己の‘不知’に躓き、前に一歩も進めず立ち往生する。それから、「それは何か」を知らねばならないと・・好奇心に燃え奮い立つ瞬間がある。そんなことが私にもあった。

    それは或る祝祭日のミサの帰りだった。カソリック系の女子高校に在籍していた私は、その日半強制的にミサの参列を義務づけられていた。そして、ミサの後、教会からバス停までの短い道のりをたまたまシスター・ベロニカとご一緒した。特にそのシスターについて感慨はない。ただ聖心女子大学にいらした当時、正田美智子さまとご一緒だったとか、さも懐かしげに語っておいでだったのを記憶するばかりなのだが。その彼女が私に「聖霊降臨とはどのようにして起こるものかご存知ですか?」とお尋ねになった。今振り返ればおそらくはその日のミサは聖霊降臨祭の記念礼拝だったのだろうから、ごく自然な問い掛けと言えよう。ところが私が口を開く間もなく、シスターはバスが来たのを眼に察知して、その場に私を置き去りにしてバス停へと駆け去って行った。ただ一人、「聖霊降臨(ペンテコステ)とはどのようにして起こるものか」との問い掛けの言葉とともに我が身は残され、その場に一瞬釘づけになった。あのときの感覚がいつまでも執拗に忘れ難い。その言葉がリフレインし、反芻をやめないのだ。

    おそらくは、新約聖書の使徒言行録中の‘秘蹟’の絵画化された図像を見ていたのだろう。基督の教えを伝道するために、異国語を語れる炎のような‘舌’が幾つも、それも翼が付いてたように記憶してるが、仰ぎ見る使徒らのもとへと天から降りてくるのだ。奇跡というか、秘蹟なのだろうか。そんなことは宗教の時間に「公教要理」で学んだから知っているとも言えた。でも問い掛けられた問いは、答を頑強に拒み、そこに宙吊りのままに投げ出されてあった。その感触にまさに私は痺れた。おかしなことにしばし答の無い状態のままにそれはグズグズと鈍重に居座っていた。どうせあちら(権威ある宗教学者)が解っておいでのようには私は決して解らない。それは時間を掛けて人生のなかで解ってゆくしかない。そして変に賢しげに説明されて解ったつもりになるのを恐れたということかしら。だから私は自分の‘舌(tongue=ことば)’を持つことに実に手間取った。ただただ自分で考えたかった。人に尋ねれば答は必ずやある。それで充足してしまう自分をむしろ恐れたとも言えよう。そんなのは嘘臭いとばかりに切って捨てた。この世の中には、不思議があっていい。解らなくてもいい。むしろ不思議に感動していたいと。「ああ、そうなのか!」と、いつかはあっけなく解ることがあってもいいのだし・・。enlightenmentもしくはenlighteningという言葉がある。日本語に訳せば啓蒙なり啓蒙的。 だが、ふとそれを「面白し!」と解釈すると、妙に腑に落ちた気がした。訳が分かるのもいい、でも「ああ、面白し!」と味わうことが肝心。ただそれだけってのがいい。自分の胸の奥がほっこりとあったまるみたいなのがいい。

    あの当時、「聖ヨゼフ学園・日星高校」のシスターたちは時折雲隠れした。修道院のほうにはいらっしゃるようなのだが・・。謎めいたひそひそ声で「黙想」とそれが呼ばれるのを聞いた。そうか、彼女らには教師としての務め以上に優先されることがある、それも「黙っていること」が!痺れた。ずうっと黙っていられるなら黙っていたい。心理臨床に携わりながらも、やはり懲りずに黙っていたいと思っている自分を時折感じることがある。いつの頃か読んだヘルマン・ヘッセの小説にあった話が忘れ難い。インドに或著名な説教師が二人いた。どちらもが人々に慕われ敬われていた。だがその説教スタイルはまるで対極的。一人は獅子奮迅の如く、言葉を尽くし人々を諭し導かんと情熱を傾ける。もう一人はただひたすら黙って人々の歎きに聞き入る。そして多くの歳月が流れ、ふといずれもが己自身来し方を振り返り、懐疑と徒労感と自己嫌悪に苛まれ、どちらもが期せずして、お互いを求めて旅立つという話だった。二人が出逢ったか否かは問題ではない。心理臨床を考えるとき、その流派の違いやらを思うとき、必ずこの話を思い出す。語るべきや、黙すべきや?煩悶は尽きない。それでも、最後にはやはり私の場合、「語らねばならない、黙したままに黙らせられて終わりたくない」が勝つのだが・・。正直言って、「炎のような‘舌’」というものに心底憧れる。言葉が語れたら・・と一途に思う。この30年余、そして今尚も執拗に、「精神分析的言語」(Psychoanalytical Language)にこだわっている。‘今・ここ’での日々の臨床の中で、‘ことばの訪れ’を渇望し待つ。おそらくは内的対象との語らいが唯一の命綱。「聖霊降臨」ならぬ、そこで囁かれる一瞬の‘思考の閃き’に衝かれたい。私の生涯を通しての‘願掛け’とも言えよう。

  • 2010/05/20 アレックスに呼び掛ける

    『アントナン・アルトーのデッサン集』のページを繰りながら慄然とした。ああ、まさに、これはアレックスじゃないか!鈍い衝撃にうちのめされ、一瞬にして私の心の封印が溶け、アレックスが忽然と蘇った。

    アレックスとはイギリスで出遭った14歳の青年で、ロンドンのセント・ジョージ病院児童精神科外来で出遭った私のセラピイ・ケースである。離婚家庭を背景に、無感動で学業不振の彼を案じた母親に促されての受診であった。彼の心的世界は不毛にして無惨を極め、疲弊した内的対象に囚われていた。しかもそれらなんら益のないuseless内的対象に、彼は執拗に愛着する。‘心中立て’とも云えよう。もはや外的世界との通路は遮断されようとしていた。彼は飢餓を訴えはしない。遅刻してきては、私に背を向けて、まずは洗面台で水を飲む。そして、やおら腰掛けて画用紙に向かう。眼前の虚空に戦場を展開させる。時折彼の口から大砲やら弾丸やらの破裂音が漏れる。彼がセッションに残したものは、アントナン・アルトーの<呪い>にも似て、焼け焦げた穴、そして破壊の爪痕。それら描画は、「クソ、クソ、クソー!」と呪詛を吐き散らす。アレックスは乳児期に育児所に預けられている。日がな一日中哺乳瓶をあてがわれ、おむつは汚れ濡れたままで独り放置されていた、と母親が痛恨事として語っている。無意識は告発して止むことはない。おそらくアントナン・アルトーにしても然り。‘悪魔祓い’は延々と執拗に続けられる。私はアレックスの画才を愛した。稀にではあったが瞠目すべき洞察力が潜在していたから。だが、このケースは尻すぼみで終息した。

    当時タヴィストックで個人指導をお願いしていたMrs.シャーリー・.ホックスター が「無意味な(meaningless)セッションもあるものよ・・」と慰め顔に言うのだった。怒りがたぎった。これがmeaninglessなぞであろうはずがない!このmeaninglessこそがmeaningなのだと。しかしながら、彼のセッションはuseless(無益)の気分が充満してゆくばかり。遅刻が続いたこともあって、病院内の私の直属の上司Mr.ジョン・ブレンナーに断念を強いられた。彼は私を擁護する立場にあり、その責任からして彼の判断は真に正しいものであったろう。だが私は、かの慈悲の人ジョンを内心恨んだものだ。自らの非力を苦く噛み締めながらも・・。

    それから30年余も遥かに越えて、今年私が個人ホームページを開設するにあたり、そのタイトルを、「精神分析へのいざない~贖いの器への変革をめざして」としたのには理由がある。これこそが私のアレックスとの‘見果てぬ夢’の続きなのだ。アレックスは無益uselessな内的対象との軛につながれたままに、その己自身を奪還すること、つまり贖うことを諦めていた。なぜ彼には闘うことができなかったのか、そしてなぜ彼を闘わせることが私にはできなかったのか。口惜しく無念でならない。確かにDr.メルツアーいうところの‘自慰的空想’が猛威を振るっていた。内的対象に秘密裏に潜入し、狼藉三昧の限りを尽くす。それは弧絶から逃れるための悪あがきでもあろう。しかしながら内的対象の安寧は危殆に瀕し、それは腐臭を漂わせ、もはや活力も萎えて、その果てには、「ああ、無駄や、無益や!」という嘆きの呟やかれる弧絶の世界へと彼を突き落とす。哀れ、‘堕天使’を思う。

    一方でアントナン・アルトーは、地獄の淵から生還し、彼自らの手で焦土と化した心的世界を彷徨い、狂おしく遮二無二に‘人のぬくもり’を捜し求めた。弧絶に堪え、だがついぞ憧れと癒しを手離しはしなかった。治療の要請はあくまでも彼という個人の個人性に発していたのだし、敢えて‘超一級の狂える人’として己自身の体験を我々に差し出した。「I am with you !」(我汝とともにあり)を呼びかけることを止めず、執拗に応答を我々に迫る。苛烈に‘ダイアローグ’が息づいている!彼の生涯は、‘苦しみの炉’であり‘贖いの器’であったとも言えよう。アレックスの潰えた夢の甦りをそこに見る思いがする。誰しもが驚異(脅威!)を覚える。「自己を生きる」とはさほどのことなのか・・と。今尚私は、心の裡でアレックスに呼びかけ、応答のない問い掛けを繰り返す。「あなたはあなたを生きたのか?」と・・。その言葉は翻って自らをも刺すのだ。「私は私を生きたのか?」と・・。

  • 2010/03/30 小さな弟(妹)よ、ガンバレ!

    「井上陽水」の賑々しい歌声が聴こえてくる。時折その歌詞にクスッと思わず笑いが内から漏れる。我知らず唇の端がゆるみ、ニタッとしてくる。
    彼のファースト・アルバム「断絶」がいい!あーあ、馬鹿やってる、おっかしいって・・。
    でも何やらほろ苦く、我が恥多かりし青春をも呼び醒まされるような・・。「ああ、あなたも?!わたしも・・」と、ひっそりと呼応しあう呟きが・・。

    まるで頭のあがらぬ、オッカナイお姉ちゃんの陰に隠れて、引込思案だったのかな。そんな「小さな弟」の彼が、あらあらまあ、ちゃんと「オニイチャン」になってるじゃない!凄い凄い!って思う。
    それって、まるっきり実は私のことなんだけど。「やれやれご苦労さまだったのよね」って、彼に語りかけてた!そして今やばりばりの「オニイチャン」やら「オネエチャン」をやってる最中にでも、どっかでこれって自分?って、妙な戸惑いがある。
    その場から盲滅法どこへでも逃げだしたいような気分。この気後れはなんだろ?自分を誰かに譲ってなきゃ落ち着かないのか?!
    いつまでたっても‘二番目の人’なんだわ、そもそもが。彼も私も?誕生以来のね!確かに腑に落ちる!彼の黒眼鏡。そしてもしかして私の精神分析も・・なのかしら?!

    「井上陽水」に自分が似ているなどといえば、どうかな?ちょっとやばい!?いい加減、でたらめ、洒落のめすやらおふざけやら。あそこまで開き直れば、面白いのに。
    彼の作詞は「自身の黙示録」なのかしら?めちゃ屈折やら捻れやらの味付けあり。それもこれもどうやら彼は幼少時、物凄い怖がりだったらしい。彼の娘の、風呂場で髪を洗ってもらう折りに泣き叫ぶ声で蘇った記憶。怖がりの根っこのところに、どうやら気難しやの実姉の存在が意識に浮上(?)!

    そうだ、そうそう、そう言えば私も!4歳頃だったか、映画館で。叔母に連れられ、従姉妹たちと一緒に見た、『キング・コング』という映画。
    スクリーンいっぱい大写しの真っ黒いシロモノに圧倒され、恐怖に駆られ、ついにワンワン泣き出し始めて。叔母さんに館外に連れ出してもらった、そんな記憶があるのだが。その折りの姉の侮蔑の眼!「ほんまダメな子なんやから!」と、その眼は言ってた。
    それから一生この歳になっても彼女には頭が上がらない。親代わりのしっかり者の姉をもった、問題の弟だったり、妹だったり。どっちも、つまり彼も私もだけど、生来の‘ぼんやりさん’なのだ!臆病と感受性が強いのとは紙一重。ご本人がおっしゃるには、「自分にてこずってますけど・・」だって(!)。
    ほんとほんと!「あんた、まだバカやってるのね?!」と溜息まじりに、言われてるってことかな?!否否、どうしてどうして!ここらで「小さな弟(妹)同盟」でも結成して、一緒にガンバローぜ!って、励まし合うのはどうだろ?!

  • 2010/03/03 A・アルトーと近代的自我

    アントナン・アルトーを読みながら、ふと近代的自我の苦悩を描いたとされるバイロンによる詩劇『マンフレッド』(1817)を想起した。アルトーはバイロンの血脈なのか!
    いずれもが名立たる名家もしくは旧家の生まれ。その気概の塊には圧倒される。それに比して私などはひ弱な単に親孝行きどりのまやかしものに思えてならない。
    親を徹底的に足蹴に出来ないのだ。嵌められた!それはそれとして。自ら在ることに猛り狂うほどの怒りを覚えないままに。
    だらだらと慢性的に馴らされてきてしまった。彼らを親としたこと、その縁を尊く思うから。彼らの愚かしさ、それはそれとして。我が身の愚かしさをもゆるされてあったことの有り難さ。
    それで一切がチャラになるということでもないが。この不徹底ぶりが私という人間の生半可さでもあり、どこか抜けてて憎めないところか。それだからお蔭さまでと腰低くしていられるわけか。物足りない!と内心凡庸な自分に文句をブツブツ漏らしながらも・・。

    そもそも親そのものに備わっている強靭さ(resilience)が問題になろうというもの。家族主義的精神風土のなかでは、ついついお互いに親も子も庇うやらいたわるやらしてしまう。足蹴にされていいほどの強靭さなど、そもそも我らが親たちには持ち合わせがないのだし。そこが個人主義の歴史的背景の違いといえばそれまでだが、彼らを羨ましいと感じざるを得ない一面でもある。そこまでやるか!と呆れながらも・・。

    だが、どうしても引っかかる。アントナン・アルトー画集のなかのデッサンの一つ、「父=母憎悪」だが。ああ、ほんと言葉が無い。痛ましいというか嘔吐を催すというか。
    幼少期に親からも誰からも子守唄を歌ってもらったことがないんだわ、とふと思った。身体的な強張り、そして硬直したままに捨て置かれている?なんら呼びかけが無い、ただただ言い付けられるだけの、所詮子どもとは管理されるものでしかない!といった、そうした運命に彼は逆らう。「糞、糞、糞ったれ!」って叫ぶしかないわけで・・。
    もっともだ!そもそも自分が誕生したとは、[おれはおまえらに騙されたcheated!] ということになる。
    おれはおれを生きねばならぬとしたら、ただただ不本意にも嵌められたという悔しさだけが渦巻く。おれがおれであるということは災厄でしかないという、この憤怒。受難とも業苦とも。未来永劫の悪魔祓い。バイロンにも似て、救済を敢然として拒む。
    それが彼ら流の「我が闘争」・・どこまでも自己貫徹を!なのだ。ああ、息が詰まる。さて、どの辺りで、どう「いい加減」を按配したものか?私の「精神分析」にしても・・なのだ!ほんまに、どないしょ!?

  • 2010/02/21 こころの遺伝子を継ぐとは

    旧知の友I.M.から講演のため上京するので会いたいとのメールあり。相変わらず現役ばりばりのケースワーカーやってる!とうの昔に引退して悠々自適のお暮らしかと思ってたのに・・。
    そして当日、久しぶりのお喋りに花を咲かせた。あっちもこっちも老いた親の看取りの苦労話なのだが。たくさんたくさん笑った!老いた親の‘愚かしさ’を話題にしていても、そこになつかしさと愛おしさと感謝がある。だから笑えるのだ、総てがいい想い出として・・。
    彼女を品川駅で見送ったあと、ふと嬉しい気づきがあった。そう、‘絆’を確かめられたのだ。
    勿論、彼女との出会いで、薄れていた懐かしさの感覚が呼び戻されたという意味で、それは外側に感じられた絆ではあるが。それ以上に実に内側にもあったのだ、絆が!ああ、それはなんという嬉しい絆か!「わたしが生きてる」とは、その絆たちが実に私のうちで生きながらえていることなのを悟った!
    此の度まず一つ解ったことがあった。彼女が彼女の恩師・「岡本重雄」の‘申し子’なんだってこと。筋金入りのケースワーカー、それはそうなんだけど。彼女が生きているってことは、岡本先生が生きてるってことなんだわ。
    それが彼女の生きることの‘貪欲さ’になっているとしたら、なんて有り難いこと!なんて嬉しいこと!

    私は自分が生来的に‘貪欲さ’とは無縁な、どちらかといえば生命力が薄い方だとずうっと思ってた。たまたま成り行きでこうなって、どこか心の隅で「私は恩師・本出祐之先生がなりたかったものになってる」という感覚があった。
    いつぞや確か、本出先生のご逝去を知らされた折かしら、彼女から「本出先生の一番の自慢は、チズコ、貴女よ!」と告げられて・・。ほんとびっくりしたというか、でもそれでどんなに励まされたことか!慰めにはなった。

    でもでも・・と思う。自分が誰かのいのちの遺伝子を継いでいるということは途轍もなくすごいこと、そして心底怖いことじゃないのか!面映いという気分と妙に臆する心が・・。それは或ることを想起させるのだ。
    かつて私がロンドンで「セント・ジョージ病院」の児童精神科外来で、Mr.ジョン・ブレンナーの指導下にあった当時の頃だが。
    タビストックでのMrs.ハリスの「乳幼児観察グループ」で私が初めて発表して、それが好評を博したというか、前代未聞にも参加者皆に一斉に拍手されるということがあって、それを後日Mrs.ハリスから伺ったとかで喜ばれ、Mr.ブレンナーが私に向かって手を差しのべ、抱かんばかりにして言った「My Darling Chizuko ! You are my credit!」という言葉。
    これを日本語に翻訳すると、「あなたは私の自慢だ。あなたのお陰で私も鼻が高い!」という意味になるのだが。
    つまり‘クレジット’というのは、師匠格である彼の優秀さを弟子たる私が証明したというわけになる。ああ、だが私は身を竦ませた。
    そして帰国後も、この言葉「You are my credit!」 という彼の言葉を心のうちから弾き出し、それに縛られまいとして抗っていた。
    誰かのためというよりは、まずは自分がどうしたいのか、どうなろうとしてるのかであり・・自由でいたかった。頑なに・・。

    だがここに至って、彼女との語らいのなかで、その活力に触れながら、ふと感じたものがある。生命力が薄いと内心危惧していた私自身にも活力が漲っている、そんな気分にようやくなれたような・・それもこれもつまりは、彼女が岡本先生の「You are my credit !」を内に生きてるとしたら、私は本出先生の「You are my credit !」を内に生きてるってことになる!そう思えたからで・・。ちょっぴり嬉しかった。安堵というか。本出先生だけでは無論ない。今ならジョン・ブレンナーの「You are my credit !」も聞ける。
    これからもそんなたくさんの声が内側で囁き続けるのかしら?それに駆り立てられて・・ああ、ご苦労しちゃうことになるのやも知れない。
    しかしそれは即ち、己のうちなる「You are my credit!」の声を絶やさないがためとも言えまいか。

  • 2010/02/15 ロープウエーで宙吊りに

    ふと一瞬頭を過ぎった白昼夢的イメージ。雪山だろうか。
    ロープに吊られたケーブル・カーの中にいる。山頂へ向かうのか、それとも下の乗り場へ降りるのか解らないが。ともかく宙吊り状態で停止している。そのゴンドラはまるで四角いボックスというか、おかしなことに椅子はない。何人かの乗客がいて、真ん中に寄り添うように固まっている。救助を待つ間、凍死しないように、お互いのからだの温もりで身を守ろうとしている(?)。
    そして、一瞬にして何やら焦点がぼやけた。互いに抱き合うような恰好していたはずが。どうやらそれじゃあ息苦しいと思ったみたいで。ふいにくるっと向きを変えてた。
    つまり互いに背中合わせになってる。そこでイメージは断ち切れた。これって、どういうこと!?ギクッとして、我が胸のうちに探知機をあててみた。

    ●連想:このイメージ想起の前後の思考脈絡からして、おそらくは、私のWEBサイト開設のご案内をお届けした葉書が何枚か‘宛先不明’で戻ってきたことに関連ありだろう。

    ああ、そうか!「ケーブル→ネット検索」だわ。尋ね人・迷子探ししなきゃ!
    だがその一瞬に宙吊り状態。身がすくみ、心が凍りつく。羅針盤の針が動かない!これ以上の深追いは禁物と断念すべきか、気後れやらためらいがあり。一瞬、もういいや!で捨て置く気分も。背を向けかけて、だが待てよと思い直し、パソコンでネット検索に取り掛かってみた。
    所属機関を当たってみる。あっ、メッケタ!フムフム、そうか、サバティカルで海外留学していたのか。住所もおそらく変わったんだ。フムフム、ナルホドと・・。そして、彼の所属機関宛に改めてご案内状を郵送。不義理せずに済んだと、ひとまず安堵。
    2、3日して後に、彼からメールあり。遮断しかけていた‘繋がり’が復興した!それは一瞬のこと!喪失(Loss)と復興(Linking)のせめぎ合い。どちらに勝負ありかが興味深いところ。憶えておこう!

    それにしても、「あら懐かしい!」というのと、「クワバラクワバラ!」というのと。どうやら人と人との出会い直しには、それらどちらもがある。
    それでとにもかくにも付き合ってみて判ることは、過去において腑に落ちなかったあれやこれやが、ナーンダ!そういうことか!ということに。
    ほんと物事の続きというのは見てみるものだわ。自発自転という言葉が好きだ。確か西田幾多郎のだが。
    ただ、もしもいのちの自発自転が反復強迫になりかねないとしたら?有り得る、それどころかそれに尽きる!そこがやはり精神分析が哲学とたもとを分かつところだろう。
    その違いは違いとして、確かに物事が明らかになるという意味では同じか。フロイトのいう尽きせぬ興味とはそれだ!自発自転の行く末を見据える、粘り強い腰の座り(心の構え)が試されよう。

  • 2010/01/16 命拾いしたいのちたち

    実にケッタイな夢だ。かつてロンドンでご一緒したことのあるSさんのお宅で家族団欒中。傍らに娘のJ子ちゃんが。ご主人のM夫さんもどうやらいるみたいな。
    H子さんは仕事から戻ったばかりとかで簡単な食事がテーブルの上に。どこかで調達したお惣菜のような。ひとまず食事が済んで。
    ・・・しばらくして冷蔵庫のなかを開けると、先程の残りものがあり。なぜか魚の干物、どうやらサンマの開き。紙に包まれた格好で。
    視覚上の記憶は、鯵かホッケなのかだが、連想したのは秋刀魚。焼いてある。まだ温もりがあり。それを食べようとして、手にしながらも、なぜか自分は海辺にいて、海水浴をしていることに。泳ぎながら、やがてどす黒い陰鬱な波がひたひたと身を覆う。
    視界が消え、感覚が麻痺していく・・そのうち潮の流れが沖へ向かうような具合だと気づく。
    やばい!と慌てる。(そもそも私は泳げないのだ!)近くに男性が泳いでいた。 助けてもらう。いつしか岸辺へと押し返される。どうやら無事らしい。H子さんと合流。まるで何事もなかったかのように。・・・目覚める。

    ●連想:これはナンジャ?なんで私が焼け焦げたサンマを手に溺れそうにならなきゃなんないのだ!?
    ・・・そして、なあーんだ!と、ハタと或る考えが頭を過ぎる。
    溺れかけ沖へ流されそうな私がいて、近くにいた誰か男性に助けられ、なんとか押し戻される恰好で浜辺にたどり着いたわけだが。その男性の姿は小さくぼんやりしていて、顔はズームアップしても、まるで‘ぼかし’が掛かってるみたいに目鼻立ちが判然とせず、のっぺらぼう。
    あれは誰だったのか?!と訝しく、だが連想の糸繰りをしていくうちに、なんとアジャー!そうだ、有波さんだわ、と判明した!
    (有)波=WAVE=WEBだわ!なんで思い付かなかったのか?むしろ不思議!
    彼は、「株式会社オーエス」のホームページ制作部の、今回の私のWEBサイト開設のきっかけをつくってくださった方で。
    当初、そもそもが「スタートラインに立ってもいないのに、ヨーイドン!の掛け声を掛けられた」ような具合でことが始まり、いよいよ具体的にことが進展するにつれて、その煩雑さに恐れをなしたのだが。
    そして、今やアップロードも間近。つい先日最終の詰めの打ち合わせを電話で彼とした。
    本当によく頑張ってくれたと、お礼やら感謝やらを口にしながら、言い知れず目頭に熱いものを一瞬覚え、自分でも意外!内心戸惑う。
    ほんとに助けていただいた、もしもこのご縁がなかったら、おそらくは私のホームページは日の目を見ることはなかったろうと。それは事実として。感極まって涙声になるとは!私としたことが!

    だが実際、あの溺れそうな私!首だけが水の上から出ていて、波間に漂い、からだに水の刺すような感触が・・。遠くには黒々と沖が眺めやられた。ああ、確かにあれは死の予感だわ。
    助けられた、そして救われた!命拾いをしたんだ、私の中のいのちたちが!そうだ、今わかった!

    今回WEB素材として大活躍してくれた昔撮った写真たちだが。あれらを使ったのはいうなれば「廃物利用」。
    この歳月それらは収納ケースの中に仕舞い込まれたまま。ずうっと忘れられてたのに。(Re:冷蔵庫の中の干物!) 「また会えたわね。会えてよかったよ!」って、また言えた。
    それがおそらくは嬉し涙のわけ!きっとそう。そしてそれもほんの序ノ口。
    まだまだこれから「また会えたわね!」がますますありそうな予感がしてる!事実、ロンドンから持ち帰ったイギリスの子供らの「症例記録」が倉庫のなかの段ボール箱に眠ったままなのだから!

  • 2009/11/24 ホームページ開設に

    「ホームページ」開設にあたって、一つの感慨あり。
    かなり以前だが、或る宗教家から「‘信仰’は、気分で媒介されて、伝達される・・」と聴かされ、その言葉が妙に感銘深く心に残ってる。
    故高木幹太牧師というお方。
    「信仰を知性に訴えて解らせるものではない・・」ともおっしゃってた。
    朝日カルチャーセンターでの「旧約聖書のかんどころ」講義の最中で、教会信者でもない、ただのカルチャー受講生の私としては、ちょっと身の竦む思いをしたんだけど。

    もしかしてご本人が、伝道者としてではなく、カルチャー講師の立場で、本来の説教ではなく、講義をしていることに、違和感を抱いてらしたのかしら。
    おそらく彼は、相互的な魂の交わり(communion) を夢想なさってらした。
    彼の言うところの‘ビリッと来るもの’の無い、つまりは心の戦慄の欠如した、「働きかけのない説教」をも慨嘆されていたのだから。
    言外に、そのようにしてキリスト教伝道が衰微してゆくことへの焦慮をも吐露されておいでであったのかも。そうした実情は、まさに「精神分析」という業界とても同じこと。
    学会はまさに‘興行’と化してゆく一方で。
    群れていればひとまずは安心といった気配がありはしないか。いのちを喪い、腑抜けた‘知’として、市民権もしくは市場的価値を得てゆくことの危うさ・虚しさが案じられてならない。

    しかしながら、キリスト教の行く方はいざ知らず、神を知らず、教典も賛美歌をも有しない我々精神分析を擁護するものとしては、愚かしくも心のうちなる泥芥をただ引っかき回す徒労を繰り返すだけなのかも知れず、空恐ろしくもあるんだけど・・
    いつしか凝視する先の闇の向こうから、不可視なる導き手の声のおとずれが聴かれるやも知れないと、そんな一縷の希望を胸に、まだまだと、なおも懲りずにまいりましょう。

  • 2009/11/13 「ことばを拾う」とは

    S.H.の話。
    姪のM子ちゃんが「海外青年協力隊」に参加する予定だと聞いて心躍らす。
    まるで我が足枷手枷が一瞬外れたかのような興奮あり。
    大学卒業して取り敢えずOLしてぐらいかと思いきや、なんと海外に雄飛とは!そして改めて我が身を振り返り、自分は何を選んだのかそして何を選ばなかったのかと。
    選べないから選ばなかったのか。選べたのに選ばなかったのか。
    どうだったかしら?選んだとしても、選ばなかったとしても、自分はそれで納得してるかどうか?問題はそれなんだが。
    そんな話しをしているところで、ふいに素っ頓狂な声を上げ、「そうなんです。それなんです、ついこの前そのことで・・」と、NHK衛星のTVドラマ「魔術師マーリン」の話に。時折そのドラマを見るんだとか。前回の粗筋。
    黒魔術師の罠に嵌められ、アーサー王子の侍者マーリンの師匠でもある宮廷医師ガイアスがキャメロット城を逐われる羽目に。
    ウーサー王の命令は絶対だからと、唯唯諾々と従う彼。その道すがらモルガーナ姫付きの侍女グウエンが登場、彼に翻意を促す。
    が臣下としての王への忠誠を盾に梃子でも動かない彼。そこで彼女は、「選べないからということで逃げるのね」と、彼を諌める。
    その言葉がS.H.の心にグサッときたんだとか。
    実際ドラマの中で宮廷医師もまた一晩野宿しながら思案に暮れ、ついには翌朝城に立ち還り、黒魔術師と対決。ウーサー王を危難から救うというめでたしめでたしのお話。
    つまりは黒魔術師がいずれ災厄をもたらすと知りながらも、王の威光を畏怖するあまり、思考を麻痺させ道義に背向いたのをガイアス自身が気づくわけなのだが。

    さて、「選べないからということで逃げるのね」という侍女グウエンの言葉にグサッと来た話に戻り、「(ことばを)拾うということなんですね」と彼女。
    言葉を拾う自分とは?「自分のなかに何もなければ耳が素通りするのに・・」と。
    確かに、彼女の耳が言葉を拾った!言い換えれば、その言葉に彼女が掴まった!「選べないからということで逃げるのね」が胸にグサリ!そこからの煩悶、そして自問自答が始まる。
    彼女の胸の裡で。確かに選べないんだから仕方ないでこれまで生きてきたかしら、でも今は違う。
    選べないではなくて、選んだ、だから私は「それは違う、私はそれは望みません」と言えるわけで。
    今ようやく自分が自分を選べるとして。
    今更アフリカ行きでもなかろうし、そしてどこであろうと自分一人で生きられるわけもなし。
    誰かと利害を共にする、それを‘縁’として生きられるかどうかが問われよう。有り難いも怖いも承知の上で・・。
    そんな声にならない呟きを聴いたような・・。自分が見えてきたかな?

    「自分のなかに何もなければ耳が素通りするのに・・」と、いみじくも彼女は語ったが。
    確かに何かがある。彼女のなかで彼女のことばが‘自発自転’してゆくのだ。そして自分を取り巻く言葉の渦から、折々になんらかの言葉をキャッチする。
    それが自分を照らす。「当たるも八卦・当たらぬも八卦」みたいだけど。
    そんな「ことば占い」をしてるのかも。
    「そうよ、そうなのよ」か、「いや違う、そうじゃない」・・どっちにしろ。
    そんなふうにか細い声にならない呟きがいつしか「私はこういう私なのです」、もしくは「あなたはそういうあなたなのですね」と・・語られ聴かれるために。

    この際、「魔術師マーリン」のなかの宮廷医師も侍女も、いずれもが実にS.H.自身の‘分身’ともいえよう。
    権威に屈し、唯々飼い馴らされてゆくだけの、誰かにとって都合のいいだけの私と、そしてそれに敢然として闘う私と。
    それら相剋のなかで活路を見いだすこと。それがまさに‘思考する’ということ。
    レゲエ歌手ボブ・マーリーの名曲「リデンプション・ソング(贖いの歌)」にもあったmental slavery (精神的奴隷)とは‘無思考’の謂い。
    己を飼い馴らし、黙らせ眠らせようとする‘敵’は自分の外にではなく、自分の内に在る。
    だからこそ、内なる眼が欲しい、我が内なる心を照らす言葉が欲しいということになろうか・・。

  • 2009/10/17 「WANTED」をめぐる相剋

    H.K.が亡くなった母親との内的対話を深めている。彼女の眼に生前自分はどう映っていたのかと自ら問うた話あり。
    そこで「箸にも棒にもかからない」という言葉がふいと口を吐く。わが耳を一瞬疑うが如し、愕然とする。まるで脱線事故みたいに、舌がスリップして、元に戻すのに難儀する。
    まさか!というか、やはり!というか。己の口から一旦出た言葉はいまさら引っ込みが付かない。狼狽し、オタオタしながら困惑の苦笑い。だが喪ったひとへの単なる恨み辛みの疎外感ではなく、心底の傷つきあり。この「unwanted」(自分は無用のもの!)の心情。
    これまでにもセッションで触れられてなかったわけではないが・・ 「unwanted」の対義語は「wanted」。これってよく西部劇映画などでは賞金付きのお尋ね者に貼られるレッテル。つまり絶えず付き纏われ狙われるお尋ねモノ。だから、捕まるものかと、アッカンベー!しながら逃げ惑う。追う側に過剰な愛情なり執着があればあるほど、こっちがどれほど冷淡だろうが嫌われることもなかろうと高を括っているわけで。それでついぞほんとに正しく「wanted」(求められたいやら信用されたい)の自分をいつしか‘盲点’にしてしまっていたわけで。
    この 「wanted」をめぐる相剋。さらには正しく求められたい、そして逃げずに応えたいとする想いは、生前の母の眼には「箸にも棒にもかからない息子」ではなかったのかと回想するなかでの傷つきに端を発する。心の転換とは実に‘痛み(psychic-pain)’がやはり媒介作用的となる。ひとつのbreak-throughだ! 感銘深い!

  • 2009/10/03 テディベア作家たち

    イギリスでも勿論、「くまのプーさん」のロビンみたいに、幼い子どもはテディベアが大好きだけど。まさかおとなの間でも根強い人気があり、日本でも人気沸騰中だなんて驚き!なんと「日本テディベア協会」までもあるんだそうな。知らなかった。たまたま「小田急百貨店」の『グランパパ』に立ち寄り、居並ぶテディベアたちに目をぱちくり。もはやアートの領域なのだ。

    2人の独逸のテディベア作家が注目された。ニコルさん(Nicole Marschollek)のテディベアたちは、スキーしてたり、巣箱を手にして肩には小さな鳥を乗せていたり、傑作なのはなんとカタツムリの背に乗って大陸横断の旅行中だったり、実に楽しい物語に溢れている。人間の似姿をごくすなおに模していると言えよう。
    一方アネットさん(Annette Rauch)といえば、テディベアと森羅万象との結合combinationに着想を得ている。くりの実、ヘタ付きの柿の実、筍、マーガレットやラベンダー、蓮の花といった身近なものすべてがテディベアになってる!至極愉快なのだ。これって、思考における変形transformationといった意味で非常に示唆的だと思う。要するに、どれだけ頭を柔軟にして多様な繋がりに対して心が開かれてあるかということ。
    私が誰かの‘才能’を面白がるとき、それをそこに見るからで。つまりはいろんな意味で私自身が励まされるという理由があるから。次への‘促し’になる。この「励まされる」ということがとっても大事。テディベアという形に限らず。

  • 2009/08/05 AWAKE-UP!そして西田哲学

    母親を訪ねての帰りの新幹線の車中。窓の外に流れゆく闇と折々に点在する灯りとを眺めながらぼんやりとあれやこれや回想。楽しく語らいながらも時折ふと老いた母親がもはや「あっちの世界」に行ってるみたいな印象を抱くことがあったと、ふとそんな瞬間が心に蘇る。そろそろ覚悟を決めなきゃと・・。やはり気が重く沈む。

    新横浜駅に着く頃に、前方の席の男の子が立ち上がった。その着ていた白いポロシャツの背中の英語のロゴマークが一瞬読み取れた。右端の一部だが、「AW」。そこから即座に「AWAKE UP!」という言葉が連想された。実際に何という文字が書かれていたのか?「AWAKE UP!」ではあるまい。その男の子がこちらに背中を向けるのを期待するもダメ。諦めかけていたら、脇に居た別の子が立ち上がった。同じポロシャツ姿。そこに同じロゴマークと察しられた。彼らは高校生の一団らしい。なんと「KANAGAWA」とあった!なるほど!その最後の綴りWAを逆に読んだわけだが。よくも「AWAKE UP!」を連想したなと、ほとほと感心した。自分の頭が一体どうなってるのか?だが沈みがちな気分を立て直すのには、この「目覚めよ!」が脈絡的には最も的を得ているわけで。(本来は「WAKE UP!起きろ!」だろうが。)

    禅でいう「不立文字」もいいが、やはり己を導くことばが己の内側から表出することの摩訶不思議さには魅了される。苦し紛れに藁をも掴むがごとく、己の未覚醒の意識が外側に、迷いからの抜け道捜しの契機を尋ねる。そして「AW」が一瞬目に飛び込む。そして己の痛苦を癒す内的対象の声の呼びかけに出会う。それがわが耳に届いたと思えばいいのかしら。これはいうなれば内的対象という実在の働きの顕在化ということか。西田哲学でいう「自己が自己に於いて自己を見る」ということに相違あるまい。その言葉がいかなる意味合いを持つのか、ちょっぴりだが解りかけた。

    (補足:西田哲学では、論理は実在のロゴス的表現であると見做される。また、論理とは「真の実在が自らをあらわにするかたち」だとも。そして西田は「実在の自己表現のかたち」として論理を求め続けたとも言われている。この論理の捉え方には共鳴を覚える。ロゴスがパトス的なのだ。
    パトスのロゴス化が論理的思考とわきまえてしまうところでは、実在は隠れてしまう。認識論的愛(epistemophilia)とは何か?その限界を突き破るものとは?その答えの模索において、西田哲学が大いなる助っ人となりはしないか。)

  • 2009/07/27 宮澤賢治童話「マグノリア」

    <午睡の夢1>:山道。ツアーの企画。山奥に咲く白い花タイサンボクを見にゆこうということらしい。もはや集合の時間はとっくに過ぎている。一人で。向こうから男性とそのこどもらしいのに出くわす。道が途中高い段差になっている。私を先にゆかせてねと言って、そこを降りる。彼らはそのツアーからの戻りらしい。私はこれから。腕にタイサンボクの花束を持っている。でもそれは造花。本物のタイサンボクを取りにゆくところ。彼らの後ろに一本白い蕾が付いたタイサンボクの枝が落ちていた。それを彼らに指し示す。落としましたよと。まだ間に合うかな?暗い道。引き返したほうがいいかな??

    <夢2>:教室みたいだが。或る村落。誰か居残りしてて、ストーブがある。そこで卵をゆでようとする。荷物を置いて外へ。水場みたいなところ、地元の人か旅行客か、女やら男やら集っている。私はよそ者だから、誰も気に止めない。挨拶しない。だんだん時間がなくなる。もう午後の3時にもなろうとしてる。山行きは断念する。戻りのバスは違ったルートで帰ろうとバス停を探す算段している。《→卵が冷蔵庫に残ってる。賞味期限が迫ってる。ゆで卵にしようかと気にしてた。これは現実のことだが。》

    ・感想:「西田幾多郎」関連の本を読み漁っている。どっちへ行くのか。誰に付いてゆけばいいのか。この時点ではかなり混乱していた。
    賞味期限にえらく過剰反応。めちゃ厄介な!
    到達点が見えない。
    途中棄権といった悪い予感に悩まされる。そうかといえば、どこかしら、いつかいつか・・と懲りない私がいて。宮澤賢治の童話「マグノリア」じゃないけど。タイサンボクがゴール?まだまだってこれからってわけかな。この夢以降、ずうっと読書。かなり見えてきたものがある。この方向で進んでゆこう。(ホームページ制作は依然として頓挫したまま・・)

  • 2009/07/20 西田幾多郎記念館

    <夢>:高台の家。内部の設計がおかしい。玄関がだだっ広い。奇妙な間取り。外に出ると樹木が。見上げると、大きな木に白い花が。椿か。ああいいなあ。さすが旧い家だけあると感心。居間に父親と母親が。土製の仮面やら壷やら収集品が部屋中に飾られているのが窓越しに見える。玄関の横の裏手を若い女と歩いている。崖みたいで道が傾斜している。危うく落ちそう。男が手を引っ張ってくれた。畑があり、大きな赤いトマトが鈴なりに群れをなして生っている。どうやらすべて腐っている。使い物にならないようだ。裏手の台所へ向かう細い道を歩んでいる。

    ・感想:明らかにネット検索で見た「西田幾多郎記念館」に圧倒されたことが背景。故郷を追われた者が故郷に錦を飾ったという、まさにお話の筋としてはバンバンザイだけど。威風堂々というか、なにやらコケオドシみたいな。西田幾多郎の孫の上田久氏は、「<哲学者は自らの書いたものだけが残ればよい。形あるものを残すという必要はない。>と言い続けていた。祖父の住居を残したり、伝記を書くことなどは、恐らく祖父の意に沿わぬことであろう」と、そのように述懐してるわけだが。(『続 祖父 西田幾多郎』 上田久著 昭和58年 南窓社) 功成り名遂げた人を顕彰するというのは、一抹の侘びしさと滑稽さが付き纏う。それも凡庸な私のやっかみか?わたしがわたしだけのわたしじゃないとしたら。どうぞどなたでもよろしければお使いくださいと言うのが素直でよかろうけれど。何ごとも大袈裟なのは剣呑に思えてならない。

  • 2009/07/08 からだの点検.こころの点検

    なぜに意気阻喪しないのかしら?からだのどこにも不安が巣くってるような気配はない。落ち込みやら強張りやらも。なんでやろ?見えてきた。微細な心の動きが。鬼さんメッケ!をやってるかな?かくれんぼしてた鬼さんが。光りが届く。キャッチする!心のうちなる相剋・葛藤にいちいちつまずく手間暇がどうやら省けてる。確かに手間取っていちいち躊躇したりするのが無いぶん、消耗感が少なくてすんでいるのかも知れない。現実は悲壮だとしても。何故かしら、悲観という闇に覆いつくされてはいないのだ。この感覚は妙だ!まるでアッカンベー!がイナイ・イナイ・バー?にギア・チェンジしたみたいな?!ほんとかな?

    ・補足:何だか気持ちが平たい、もしくは丸い?ひっかかりやら棘やら角がない、そんな気分。「なるようになるさ!」 とでもいうような・・!やれやれ!

  • 2009/06/27 私がバイクの講習なんて

    久しぶりに妙に現実味のある夢を見た。
    <夢>:水泳教室のようだ。真っ黒い水。温泉か?そこにからだを沈めて脚をバタバタやってる。周囲には女性らしき姿がちらほら。それから、更衣室で着替え。お疲れさま程度の挨拶で。特に誰と親しいわけでもない。帰る段になって、女が近付いてきて、4時からもうひとつ講座を受講してるんだけどと言う。まだ一時間あるんだとか。その彼女に付いて行くと、練習用のバイクが固定してある部屋へ。車輪はなく、腰掛ける座の部分のみ。あちらがそれに乗る恰好。その傍らに自分も同じように座に跨る。いつの間にか外に出て走ってる。彼女のバイクと自分のバイクとが連結されている。彼女が運転してるわけだが。ふと自分も受講して習うかと一瞬思うが。その彼女は背が高く痩せ型。女優の「清水里沙」に似ている。私は彼女に比べグンと背が低い。脚も短かめ。バイクの講習など無理じゃないかと、申し込むのを躊躇。どんどんバイクは走ってゆく。彼女は免許持ってたかしらと不安になる。もう30分は過ぎてる。戻ろうと彼女に告げるのだが。広い車道を下って行く。通りすがりに何やら遺跡あり。どうやら仏教関係のなにか。路の傍らにインド人風の人たちが佇んでる。昔流行したらしいが。お経の呪文を日本語で何と言ったものかと頻りに考えている。

    ・連想あれこれ:
    1.分析患者Y.O.との関連で、「自分を見届ける」という言葉が浮かぶ。
    2.女優の「清水里沙」とは、生命関係学を標榜する科学者・清水博氏!?
    3.仏教遺跡。さっぱりチンプンカンプンな文献漁り。彼並びに彼ら、凄いなあと感嘆しきり。気後れするものの、でもなぜかしら「負けん気」が出てきた!私も・・と?!
    4.黒い湯のプールは、新宿の天然温泉『十二社温泉』。惜しまれながらも先日廃業。
    5.「生長の家」の内部で紛争ありとのゴシップが漏れ伝わる。流行り廃り。

    夢のテーマは「継承」。どうやら自分の居場所をもっと外へ拡げよと告げてる。内なるプッシュあり!問題はおそらく牽引力だ!誰かが‘牽引車’に?清水博氏かな?!さてさて・・・
    ホームページ制作にそろそろ本腰入れるべきだろう。夢の中の‘バイク’とは、おそらく「ホームページ・ビルダー」のことだわ!やっぱりね!おそらく私はなにかを待ってる。このままではすまないぞといった気分なのかしら。

    ・追記:夢の背景の気分というのが、ここしばらく繰り返し見ている映画「狩人と犬、最後の旅」(原題:The Last Trapper)。見る度に涙している。カナダの自然の懐深く抱かれて、丸太小屋に白人の男が狩りをしながら原住民の女とともに暮らしてる。伐採のため猟場が規制されてゆく悲哀。猟場を移動するが。犬ゾリを引く犬たちとの交流がいいのだ!生きてる!いのちたちが引き継がれてゆく大地。まだこの地上にあった!だがもはやそれも今や無いか?!愛しいものたちよ!「老兵は消え去るのみ」なのか。やはり涙する!慰めは、雪の中を7匹の犬たちが一丸となって犬ぞりを引っ張って疾駆する、その姿のなんと誇らしげなこと!

  • 2009/04/03 青い柔道着の女の子

    日付ははっきりしないが、おそらくは今週の月曜(3月30日)の朝だったか。夢を見た。あれっと、ちよっと嬉しい気分が残る。気になったがメモ書きする暇がなかった。<女の子が青い柔道着を着て男と立ち会っている。> 相手の胸を借りることを有り難いと喜んでいるらしい。相手の男は背が高く痩せてる。白い柔道着を着ていた。青い柔道着って初心者が着るんだっけ?
    とにかく私が珍しく殊勝な気分になってる。教えを請うといったような。おそらく向かい合ってる相手は植田重雄先生だろう。先日彼の初期の著作の殆どをアマゾン仲介でゲットした!都内図書館では入手不可能の古書も!やったあー!ついでに彼の翻訳書の一つ、マルティン・ブーバーの「我と汝」の英訳書も。試みに訳を比較検討してみるのもいいかなと。昨晩つらつら考えていたが。やはりネット検索って凄いや!情報量が違う。今頃になって植田重雄先生の業績を知って、ああやっぱりと腑に落ちたけど!あの当時1990年代の後半、それを知っていたならと悔やまれるが。遅咲きの私らしい目覚め方だ。彼が生きておいでだとしてももはや教えを請うのとも違うだろう。彼は彼の知りたかったことを知った。私もまた私の知りたいことを知らねば。そうだとしても大いなる慰めだ!彼が翻訳したボーマン著「ヘブライ人とギリシャ人の思惟」が初版1957年以来増版を重ねていることを知った。自分が何かを知ろうとすることで誰かと繋がってゆく!なんて面白い!!

  • 2009/03/27 アメリカ原住民の顔写真

    昨日のこと、代官山の裏道をあっちこっちうろうろしていたときに目に留まったものがある。革ブーツやら鞄やら革細工ものが並ぶ店先。その玄関脇の壁にセピア色の写真が20枚から30枚ほどだがびっしりと無雑作に貼ってあった。
    総てがかつてのアメリカ原住民の顔写真なのだ。中には顔を白塗りしてる若い戦士らしき不気味なのもあったが、どちらかというと眼が釘付けになったのは、長老格の年老いた男たちの顔。それが何という風格か!風雪に耐え抜いた顔というのだろうか?誰がどこで彼らを撮ったのかはいざ知らず。ああ、これこそが絶滅危惧種の顔だわと一瞬思う。
    おそらくはもはやこの世に生存してはおるまい。それらの写真を木造建ての店頭付近に雨ざらしのまま張りつけてる、この感覚は凄い!どうやら店のオーナーは異国の人らしい。狩猟民族の末裔か?ワイルドな男っぽさを演出してるといえばそれまでだが。圧倒された。なにかしら胸が詰まる。衝撃が治まらない。泣きたいような!かつて在ったものがもはや跡形もないことが。

  • 2009/02/28 タスキを手渡されたのか

    <夢・その1>:ウィークリー・マンションのような一室。しばらくの間の仮住まいらしい。引越し荷物はどこかに預けてあるらしい。そこに泊まる段になり、そこのホテル従業員らしき若い男が応対してくれてる。柔らかい手触りのブランケットを一枚持ってきてくれた。そこのホテルの備品。取り敢えず貸与してもらったらしい。・・夜道を歩いてる。バス停に向かってる。後ろから男が付いてきたらしい(姿は見えないが)。バスが来たからと乗り込む段に、一緒に来てくれたその男に振り向いて私が礼を言ってる。

    <夢・その2>:大学の構内。誰か或教授を訪ねたらしい。研究室には先生は不在らしい。秘書の人に、会いたいのですが、と話してる。本を取りに来たんだとか説明してる。電話すればいいんだけど。『図書館』の方を見てきますと言ってる。

    ・連想1:ブランケットとの関連で、何故か「タオルを投げられた」やら「タスキを手渡された」やらの言葉が頭を過ぎる。故植田重雄を久々に懐かしく思い出す。ボーマンの「ヘブライ人とギリシャ人の思惟」を1957年に翻訳出版してる。ああ、ここから彼は始まってる。なるほど!わが師と呼べる数少ない一人。早速今朝パソコンを開き、アマゾンで検索。改めてなるほど!彼との絆をなつかしむあまり即刻購入しょうかとも。念のため渋谷中央図書館をも検索。あるものはあった!取り敢えず予約して取り寄せてもらおうと考え直す。二転三転。借り出した本をコピーするのでもいいし。初期の著作は見当たらないが。早稲田大学の図書館にあるかも。行ってみるか?めずらしくも心躍り、昂揚する。
    尚、メモ書きに「タスキ」が「タスケ」になってる!ギョギョだ!まあまあ又々助けられるかな?リレーされてゆく確かな手応えあり!さて頑張って走るか!

    ・連想2:思えば不思議。作家・辺見庸の「言葉と死」でボーマン著「ヘブライ人とギリシャ人の思惟」を知る。それが植田重雄翻訳であることは知らなかったわけで。「ダバール」についてであるが、その意味するところが‘前に駆り立てるもの’としての言葉というのが、実に特筆すべきこと。辺見庸氏がそうしたことに感応したことが、やはり繋がるべくして繋がってるんだという確信に至る!感銘を覚える。何かしら生きていて信じられるものがあるという嬉しさだ!

    <半覚醒夢>:午睡から目覚める時点で半覚醒夢を見る。妙な!タッパーを手に。開けようとしている。蓋の四方にセロテープが貼られてあり、一つずつ剥がそうとする。ふと見ると蓋をぐるりと取り巻くようにセロテープが貼られてあり、或る点のテープの端を摘みあげて引っ張れば一回で開けられると判る。なんだ!なるほど、ああ納得!

    ・連想:外付けハードディスクに保存したフォルダが増え過ぎ。もう一つ整理したい。何をどこに収めれば、どう収まるのか。同時に部屋を眺め回してるところ。ワープロ機を処分してからのあれやこれや。最近頭が軟らかくなってきたみたいな。身辺が片付いてゆく。すっきりしてゆく!!これでいい、これでいい!

  • 2009/02/27 記録がなければその事実も

    <今朝の夢>:店内。テーブルの上にあった硝子製の小さなボトルを落としてしまう。通り過がりにからだが触れたらしい。昔の醤油瓶に似てるが、薄青で綺麗。ちょっと魅せられたが。オブジェ風でいい。値段は付いてなかったけど。床に落ちて首の辺りで割れたみたいだ。私はあまり動じてない。さらに店内に並べてある手織物のショールなどを物色。その後、レジの女性店員に事の次第を告げ、それもいただきますからと、その壊れた硝子瓶を買い求める。私の買い物した荷物の紙袋が店内のあちこちに置いてある。それらを抱えて店を出る。それからさて何処へ向かうのかよく判らない。行き先を間違えたみたいな焦燥感あり。

    ・連想:手織りのショールのある店とは以前すぐ近くにあった輸入雑貨屋。どこかへ移転したらしくもう跡形もない。今そこには変哲もないマンションが建ってる。もうかつて昔がどうであったかなど思い出すのも困難。目下フロッピー総てをパソコンに取り込む作業中なのだが。症例でもはや名前の記憶がないのもあり、呆然とする。もう昔々のことだとしても、書簡なぞ覗いてみると、案外と生々しい感情が蘇る。ちょっと持て余しそう。硝子瓶はローマンガラス、つまりは地震で崩壊したローマの地下から発掘された骨董品にも似てる。
    昨晩一応作業は終了し、今日一日、目いっぱい頑張って、これでいいと確認を済ませた。何かをどこかに迷子にしてはいないかと、すごく神経すり減らし疲れた。これでついにワープロ機を廃棄処分できる。何やら過去のあれやこれやがどこかへ行ってしまうような、妙な心残りあり。取りこぼし無しに総てパソコンに保存できたというのに。頭の中の記憶がどうもね。忘れてたことを半強制的に思い出すことにもなりそうな。土の中に永遠に眠りにつく方が良かったのではと内心臆する気分あり。ああ、だが忘れてはならないのだ!広島原爆図の丸木位里・俊夫妻そして水俣の記録映画監督の土本典昭氏に見倣うべし。しかしながら確かに圧倒的に何かしらツライものがある。「記録がなければその事実も無かったことになる」というのも真実なり!だとすれば・・!さて、どうするか?

    ・追記:土本典昭氏の言《水俣病といっても・・記憶すべき人々は誰なのか?目の前にきちんと掴みだしたい。・・夢は、人間を描きたい。その人の何かを人生を,或いはその人がぶつかっている社会の問題をその人を通して描きたい。その人の眼の動きを見ていれば、世界を描かなくても、その人の眼の動きの中にある。その人の瞳の輝きで世界がわかるということがあるんじゃないか・・》一途で健気で、なんていいんでしょ!!

  • 2009/02/24 メルツアーの翻訳をめぐって

    <今朝の夢>:かなりごちゃごちゃしてる。人だかりあり。マーケットの広場のような。台座の上に何やら物を並べている。一対の雛。ちょっと地味。さらに男が持ち込んだ手作りの一対のちょっと派手めな雛、前の雛を隅に押しやり真ん中に置く。スリッパの形で花の飾り立てのあるフェルト製のオブジェも。ちょっといいかなと思うが。後から女性がビニール袋いっぱいに幾つも花束を持ち込む。それらを台座の真ん中に並べる。しばらくして全体に薄暗くすべてが消えた。後方辺りに父親がいる。鉢の土壌を植え替えしてるらしい。私が誰かと話してる。私がいつもベランダで植物の世話をしてるのを遠くから見てると言われ驚く。青山とか六本木の園芸店だというのだが。父親の方を見ると、植え替えの作業は済んだらしい。それら植木鉢を壁にある棚に載せるのに手を貸す。鉢は少々傾いてるが、どうにか収まってる。

    ・連想:これといった何かはないのだが。亡父が夢の中で黙々と立ち働いているのは嬉しい。もしかしてDr.メルツアーと関連ありか?彼も庭仕事を愛してたから。そういえば先日頭に過ぎったこと。あれこれ、これからの行く末の私、何をするやらと考えていて、エッセイでも書こうかと。さらには例のメルツアーの自閉症グループの本だが。やはり気掛かりなのだわ。なのに、おそらくあれを私が翻訳することはまずないだろうと思う。いつか誰かがするだろうが。でも誰に任せられるというのか!先日のメルツアー翻訳の出版はさんざんのていたらく!もはや始まる前に終わってるって感あり。だが・・まあ、いずれにしろ若手に託すしかなかろう。いつの日か誰か志のあるひとの待たれるところだが、どうかな・・。

    引っ掛かってることが今一つ。ベランダから青山・六本木の方角に東京タワーが見えるんだが。そっちの方角にかつて個人の邸宅があったのが取り壊され、その跡地に5年前頃に建った瀟洒な豪華マンションあり。その最上階が変なのだ。まるで誰も住んでないみたいな。だだっ広いベランダには鉢植えが所狭しと並べられてあり、ベンチもあるみたいなのに。人影がない。
    どうやら鉢植えは総て枯れ果てて放置されているままのよう。妙に気になるんだが。おそらく居住者に何らかの異変ありか?

    (さらなる連想:書棚に並ぶ本たち。イギリスから持ち帰って以来、ページを開くこともないままに並んで飾られてあるのが殆ど。日本語に翻訳されることもなく。どないしょ?!夢の内容はどうやらそっちへの促しを意味してる。それでメルツアーの‘供養’になるとでも。彼をヨイショするのか、私がおそらくヨイショされるんやろけど。)

    ・追記:台座、つまりテーブル。そこに持ち込まれたあれやこれや。ああそうだ、パーティーに何か持って行くcontributionのことか!えっ、私が?!何かしら私の手掛けたものを持ち込むってわけ。彼らには読めないとしてもだ!マーケット・市場を相手にする気は毛頭ないわけだが。やはり絶やしてはならない。続けるしかない!ということだ。手を貸す、あるいは手を貸して貰うか!どちらにしても繋がってゆくってことなんだろう!?

    ・考察:夢を解釈するって何やろ?筋立てが判ったとしても。何やおとなしくご託宣に頭垂れて聞き従っていいものかって思いを抱く。言い含められる、説き伏せられる、丸め込まれるなど。やはりそれもそうだがと、間を置いて、最後は自分が、つまりは意識が、決めるんだと譲らない!無意識とのバトルは続く。何やら苦笑い。とことん舵取りするのは私だという自恃の念あり。流されまい、引きずられまいと。自分以外の誰かに自分が取って替わられないために。誰かに都合のいい私など無用にしたい。己自身の中の‘羅針盤’にすら懐疑の眼を向ける。とことん油断ならない私。厄介といえば厄介か!

  • 2009/02/23 ムージル小説「愛の完成」

    ムージルの「愛の完成」を読んでる最中、一瞬或る一つの映像が頭を過ぎる。<暗闇の中を歩いている。>記憶を辿ると、ああそうだと思いあたった!『府中美術館』の帰り道だ。途中の道すがら店をあっちこっち物色してるうちに夕暮れて。駅を目指してるつもりが、方向が怪しい。明るめを目指して進むが、どうやら立入禁止の駐車場の中に紛れ込んだらしい。一台の車がまともに自分目掛けてくるのを目にしてヒヤッとして避けたが!あの時の、とんでもないところに紛れ込んだという切迫感。ムージルの「愛の完成」がどうしても腑に落ちない。行きずりの男と性的な関係を持つことがどうして愛する夫との愛が完結するというのかしら!錯綜しかつ倒錯めいていて、ついてゆけない。ただそれは有り得ないというのでは無論なく、妻なる人或は母親がおそらくモデルらしいという意味で現実感はある。だがどのような理屈づけ・筋立てにしろ、その裏に妖しく烈しく燃えたぎる雌的な衝動性がぐりぐりと精緻にえぐり出されている。大した筆致だ。これじゃそこら辺のありふれた精神分析かぶれなど眼じゃないだろうことはよく解る!フロイトの女性患者の症例すらも見劣りする!やはりムージルは類いなく非凡だ。
    しかしながらやはりどう合理づけしようとも、「ああ恥多し!」なのは逃れようもない。これってことばの‘罠’じゃないか。自己を合理づけしながらも、自分を貶めもしくは罪に陥れるための・・。或いはその逆でもあるか。Tricks of Mind!自己欺瞞という巧妙な仕掛け!?ああ、くわばらくわばら!

  • 2009/02/16 映画「中国の小さなお針子

    <夢>:性懲りもなくといった感じで。又々だ。わけが解らぬ。男が眼の前で時計の分解修理をしている。どうせ捨てるものだからと、でも何故かしら、使えるものなら使おうと思ったのか。私が彼に腕時計を預けたらしい。意外にもその男は丁寧に仕事に没頭している。俯き加減に分解したピースを並べている。とても私には手に負えないと眺めてる。待っていても、そう簡単に終わりそうにない。それを預けて帰ろうとする。ところが、妙なことに、その彼の傍らでコンロに掛けてある味噌汁の鍋の中に冷めて強張ったご飯をほぐしながら少しずつ入れて雑炊をつくってる。どういうの!?

    ・連想:ふいに思い出す。遠い昔、「あなたはな~にも知らないんだねぇ」とさも愉快そうに言う男がいたが。でもほんと確かに、ああ、知らなかった!ということがあるもんだ。ムージルの「特性のない男」の背景にマルティン・ブーバーの「忘我の告白」があるって!昨晩寝入りに読んで、ショック。では、それを知らずに読むのとそれを知ってて読むのとではどういう違いがある!?盲点を盲点のままに、どう解ればいいのか?メラニー・クラインが生きた時代つまり20世紀初期にドイツで提唱され世界に広まった「児童から(フォム・キンデ・アウス)」の教育思想は、エレン・ケイの著書「児童の世紀」によって促されたんだとやら。それについてもまったく同様。なかなかに解ったつもりになれないのも道理。さて、あなたの「知ってる」って、何をかな?

    ・追記:映画「中国の小さなお針子」の中でのこと。農村僻地の女の子らが初めて見た目覚まし時計を、そのベル音の鳴るのを面白がるあまり、わけも解らぬままにバラバラに解体してしまう。その時計の持ち主とは文革の煽りで農村へと下放されてきた都会育ちの知識層の兄弟。それでそれらバラバラのピースをかき集め、組み立てるわけだが。何故かヒヤッとした覚えあり。もしも一つでもピースが紛失したらと。知らないということはなんと恐ろしい。しかしながら一方で、そのとんでもない僻地の小さなお針子が兄弟に「バルザック」の小説を読み聞かせされるうちに人生に目覚めたというか(性に目覚めたというか)、終いにはなんと一人村を捨て都会へ出てゆく決心をするんだから、知るというのはもっと怖いかも。それで、彼女は見つけたかな?何をかしら?

    ・後記:夢のなかの‘雑炊’との関連。おそらくここに至って、凍結したままの記憶をいよいよ‘解凍’する時期なのだろう。どうせすべてを網羅し切るなど出来はしない。ムージルの「特性のない男」のように‘未完’となろうが。ぎりぎり精一杯生きて、持てる限りの時間を使い尽くして尚知らねばならない、書かねばならないものとは、彼が求めたものとは何であったのかしら。「合一」という彼の初期の作品の題が案外ヒントかも。何やら彼の生涯を通しての作家としての一筋の軌跡を辿ることができそうな。反合一なる親、そして「特性のない男」のウルリッヒと双子の妹との合一。つまりは「合一」の希求なんだわ。まあそうであれば、マルティン・ブーバーの「忘我(エクスターゼ)」とは一脈通じるのも道理ということに・・。さて、私の場合は・・?!

  • 2009/02/14 心の声を聞いている!

    H.K.の語った夢だが。かなり複雑かつ巧緻な印象。あれやこれやの想いが重層的、圧縮率も高い。連想を掘り下げてゆくなかで、さまざまに彼自身の経験が幾重にも重なり繋がってゆく。手応えあり。メンタルスペースの拡がりが窺われる。
    即ちそれは、抑圧からくる心の萎縮・硬直から解放された部分が増してきた所以なのか?これこそが精神分析の狙いと言えよう。

    特筆すべきことがらは、近年亡くなった母親との内なる‘対話’がここに至って俄然増えている。夢の中の<‘プロジェクター’を操作している>という箇所がそうだが。心の声を聞いている!

  • 2009/02/12 夢のお告げあり

    <夢>:眼の前に一枚の紙を示される。「勧告書」のようだが。‘帰命’という字あり。他にも幾つか字が並んでいて、従順やら。どれにするか選べということらしい。辞書には帰命という漢字は無い。回帰・復帰・帰依・帰属。これらいずれも何やら心撃たれる。「あるべき所におさまる・おもむく」の謂いとやら。ああ、いよいよだわ。もはや逃げも隠れもできないってわけか?!ごまかしようがない。独りだわ!もうやるっきゃないってこと!ついにいよいよ召命callling というわけか?!

  • 2009/02/10 自立した親と娘がいて

    「精神分析」の歴史をひもとけば、ああこれが自分の親なのか!と、何かの拍子に興ざめ鼻白み、そして羞恥の念で凍りつく。一瞬私は知らない、関係ないと背を向けて去ろうとしては凝然とする。逃げ道などもはやあろうはずもないのだから。まさに自分の親を親なるものとして疑わず、その子どもとして生きてきたことを、今や一切合切剥ぎ取れるものなら剥ぎ取ってみたいといった衝動が起こる。剥ぎ取ってどうなるものでもないのに。

    ひとつ妙なことが記憶の闇のとばりの向こうからふいと姿を現した。イギリスでのこと。南アフリカ共和国で生まれ育ったという若い白人女性。ひょんなところで出会い親しくなった。自由人っぽいひとで、ちょっとイギリス人にはめずらしいタイプだからか、印象に残った。その彼女、ベッキーが語ってた。両親ともに学者、つまりエリート階層なのだが。黒人の乳母に養育され、物心つくようになって、自分の皮膚の色が乳母のと違うことに気付き、己の皮膚の色を嫌悪したんだとか。
    社会的身分の上下など、この際まったく後知恵でしかない。愛する者と同じにはなれない悲哀と苛立ち。一体感を永遠に拒まれている。途方もない隔絶感。当然何がなんでもそれを脱価値化しておとしめずにはいられない衝迫に駆られる。当然彼女のように、いずれ実際には自分の白人の両親の階級及び教養に同化してゆくのだが。それでも嘘寒い‘劣等感’から解放されることはないのだ。それはからだの奥深く澱のように居座っている。現実はまさに逆さま。自分の優位は揺るがないというのに。愛着したものとの一体感、それこそが命綱だとしたら。敢えてそこにナイフを突き立てる所業とは?
    ああ、これぞエディプスなり!棄てる、そして棄てられることを願うのだ。親の因果なぞ自分には与り知らぬことに!白紙撤回のような。そして結局のところ、我が身が肯うべき運命とは一体なんなのだろう。

    ああ、なんという執拗なこだわりか!ベッキーの両親はいつも連れ立って調査とやら海外出張で不在がち。幼少時の彼女はいつも置いてきぼりで、だから近隣の黒人の子どもらと群れて裸足で野山をほっつき歩いていたとやら。自立した親たち、自立した娘。そのまぶしいほどの自立independenceと屈託のなさcarefree。眼を瞠った。勿論ロンドンであの当時彼女には同棲してた彼がいたわけで。そんな彼女とは似ても似つかない私であったし。そして今尚やはり親との縁に戻っているわけだから。大違いなんだけど。もちろん納得づくで・・なのではあるが。おそらくそこには何かがあるからで・・。

  • 2009/01/29 親子間での代理贖罪

    自分に対して自分が責任あるという精神分析の大前提は揺るがないとして。何やらそこに無理があるような。懐疑がふと過ぎる。遺伝を殊更に論(あげつら)うことをしないまでも、果たして本当にまるごと自分が自分であることに責任があるのかしら?T.S.のことだが。「オネショたれ、それが私!」を生涯にわたり引きずってきた。でももしも彼女の母親がああではなくて、別の違った対応がなされていたならばどうであったろう?そこにどんな言葉があれば、どんな介入があれば、どのような寄り添いがあれば、「オネショたれ、それが私!」 が彼女にとって無縁なるものとして回避されたといえるのだろう。それを自分だと思い込むそれとはそもそも何なのだ!?
    いずれにしても、こうでしかない自分を憐れむなり蔑むなりして、それも自分が自分であることへの責任の取り方ではあろうが。より正しい有り方としては、こうでありたかった・こうでありたい私というものの‘夢想’を保証し、私が私を選ぶ道付けを可能にしてゆくことではないか!私ではないものが私になってる、それが私が生きることを阻害しているとしたら。そしてそれは誰かが担うべきものを自分が肩代わりさせられたものだとしたら。この理不尽さにどう耐えられるか?誰かの罪。それを己が何故に担わねばならぬのか?この問いこそが「代理贖罪」の謂い。永遠の謎そして基督教の‘秘蹟’でもあろう。その眼目とは?自ら担うことに敢えて自らが名乗りをあげる。おそらくは、そこに糾さねばならぬものがあるという認識に始まり、そうすることでしか義はこの世に顕現し得ないというわけか。糾すことの中に何ごとであれ知るきっかけ・糸口を掴むことがあろうから。臆病・怠惰・傲慢は知ることに背を向け、無知に至る。つまりは知のチャンスは有り得ない。そこでは問われることも応えられることも無縁だとしたら。生の意味とは?やはり懐疑と逡巡を引きずりながらも、敢えて「自分が自分に責任あり」とのスタンスを堅持してゆくしかなかろう。

    ・「認識愛(epistemophilia)とは」についての補足:「知は現れることを欲し、単なる隠れた存在には甘んじないというのがその属性である。
    知が彼を感動させるや否やそれが自分にとって単なる所有物と化さぬよう、さらに それの光をいやが上にも放射することを望む。」(メモ書きしてあったこの言葉、確かローベルト・ムージルだったかな?)

    何と言う慰め!自己忘却の麻痺的状況からの脱却。「思い出せ!」は、目覚めよ!生きろ!と同義語。精神をいかなる結論にも至らない「ほとばしる泉・咲き出でる花」とみること。別の生のユートピアにつうじてる!「湧きいずるもの・咲きいずるもの」の精神の擁護。
    ああ、これこそが西欧文明の華!この知は魂の救済に果たして繋がるのかしら?!
    「非存在なる私」が贖われるためには、この道に踏みとどまるしかないか!

  • 2009/01/26 エミール.ゾラ「パスカル博士」

    今朝の夢。陳腐なようで。何か意味あるのかな?或お宅で私は問題のある娘の家庭教師をしてるらしい。その傍らに彼女の妹がいる。何やら箱型の電池を手にしてまさに分解しょうとしているところ。火花が一瞬散った?危ないからとやめなと叱るが。お姉ちゃんの言うことを一向に聞き入れる気配なし。姉の方が問題と思ってたら妹の方が問題やと思う。そこに彼女らの父親が帰宅。姉が彼の耳元に何やらひそひそ話。矛先が私へ向かってる。流しに立ちながら、私に独身か?と彼が聞いた。明らかに嫌がらせ。独身だと家族のことはわからないと言うのかと聞き返す。孤独というのとも違うと言おうとするが。しかしもはや何も話す気は失せて、そうですか?と引き下がろうとする。そこに玄関口に男たちの姿が・・。何やらトラブルありなのか?関わり合いにならずにそのまま退散・・。

    ・連想:「パスカル博士」の読書の余韻か?彼の遺伝研究の著作やらメモやら一切合切が燃やされた!エミール・ゾラはなんでこういう結末にしたのか?解らなくもないが。「精神分析」に一歩近付いて、またもや二歩後退といったところ。己自身のルーツを辿り知ることで寛容と勇気を得ること、そうじゃなかったのか?そうした信は脆い、ややもすると 覆される。知って何になる!?知らぬが花、言わぬが花。真相を暴こうとすれば火種を抱えることに。闇に葬るのが一番か!私の「症例記録」、そんなふうにお倉入りで終わる?おそらく・・ 誰かのため何かのためという確信が私に持てない以上、そうした運命は免れまい。何を怖がっているのかな?
    夢の中の‘乾電池’って何やろ?中には何やら気迫とか熱狂やらが詰まってたみたいだが。
    知ろうと遮二無二突っ込む。カワセミが獲物めがけて水中にダイビングする瞬間の猛々しさ!おそらくはそれが私だろう。
    だとしたら誰にでも彼にでも私自身を開陳していいはずもないかな?! 確かにね。父親との確執を巡っては家族の皆を嘆かせたって反省もあり・・だけど。
    でもさ、ほんまのことが解らんままって気持ち悪いんやわ。どういうことなんや?と、もっと聞けたら良かった。自分だけ解ってたらいいってもんじゃないやろ。お父さん頼みますと、こっちばかりが頭下げてるだけじゃあね。腑抜けやんか!腑抜けになってたまるか!なんだわね。ゾラの限界というか、フロイトにしてもそうなのだが、やはり女性の自立への意志・気概が描けていないことが恨めしい。ここに「バトンリレーされた!」と肝に命ずるべし!

  • 2009/01/23 己が己たる由縁

    <今朝の夢>:どうもややこしい限り。どこか田舎。旅行中らしい。辺りを散策。阿見かしら?近くに住む幼馴染のフミヨさん宅を訪ねようと思いつく。昼前だが行ってみる。ちょうど祭の日らしく人が集まっている。フミヨさんらしい若奥さん。特に表情なし。帰り際、そこに集まっている男達が話してる。作家とか臨床家とかマルチ有名人はダメやとやら。ホテルに戻ろうとする。ミエさんにメールしょうとする。ツアーなのに、私は無断外泊したみたいだ。一人皆に取り残され置き去りにされたかと心配。バス停あり。「名古屋駅行きますか?」と聞くと、そうだと言うので来たバスに乗り込む。中は混んでる。座席にホームレスらしき風体の男。背を向ける。床に何か帳面を広げて書く。傍らに本があり、開かれたページに中原中也か宮澤賢治かいずれかの詩があり、その本の持ち主らしき若い女性にニコッと微笑みかける。

    ・解釈:昨夜ゾラの「パスカル博士」を読む。その余韻らしい。自分だけは遺伝的疾患を受け継いではいないと思ってた彼。ここに至ってガタガタ足元が崩れるような。人生に対する後悔やら己自身への懐疑やら。そうした彼と自分とが似ている。その引込思案やら思索に耽り瞑想を好む気質が。ああ自分だって解らないやとふと気弱になったかな?先程のS.H.とのセッション。元彼とのこと。吐き気するやら獣的やらの言葉が口を吐く。今更ながらに。リセットもリベンジも成らず。違う人生があった?否!自分の値打ちを自分が一番知らないのよね、きっとそう!例えば、いつぞや電話のあった友人、ずうっと幼稚園教諭で退職したばかりとか。楽しかったあと彼女。いいんだなあ。私だってそうなろうとしたらなってたかも知れず。子どもらと『大きな栗の木の下で』を歌ったり踊ったり・・。
    でもやはりそれは違う。私じゃない!「私が私になる」ということ。それは中也にしろ賢治にしろ、厄介至極なのだ。いっそ誰でもない何でもない私で終わる?どこかそれでもいいという声あり。「生きててごめんなさい!」って、尻込み尻込みして消えてゆく?だが臨床に携わっている限り、自分の内側の動きが、つまりは混迷が、そのままに相手に反映される。それが怖い。絶え間ない、終わりがない道筋探しだ!論理の糸筋を手繰りながら、これでいいか?と己の心に聴いている。本当にそうか?と。自分に対する責任を全うすることだけ。それが関わり合う相手への責任を全うすることになればいいが。
    今更自分以外の誰になりたいわけも無し。さて中也や賢治を見倣って、まさに確信犯的に己が己たる由縁を生き切るとするか!

  • 2009/01/08 ゾラとフロイト

    フロイトがブロイアーと共著で「ヒステリー研究」を出したのは1895年。彼がシャルコーの元を訪ねたのは1885年から1886年の5ヶ月間。一方ゾラは1867年「テレーズ・ラカン」を病理学的研究作品と銘打って出版。これは彼の自然主義理論の根拠となるテーマの「種族・環境・自我」による決定論。クロード・ベルナールの「実験医学論」に依拠している。この1867年頃、神経症(ネヴローズ) という用語はゾラの時代に急速に一般化していくわけで。時代的背景、特に女性の抑圧的状況を知る必要あり。その性と身体の実態こそが問題になっていたわけで。神経症とは個人をむしばむ根元的な病理のメタファーだとして。自然主義文学に通底する病いというテーマは、見逃すわけにはゆかない。ゾラが「自然」とか「真実」を謳うとき、個人をつうじての物語りを一般的な人間性と普遍性に到達するための概念として使ってるとしたら、そこに傷んでいる人々の贖いが究極に求められてはいまいか!徐々にうすぼんやりながら時代が顔をもったものとして立ち現れてくるようだ。ゾラがフロイトに先駆けてエロスとタナトスとの結びつきを赤裸々に作中に暴露しているわけだ。
    生きながらにしてぎりぎり死の淵に追い詰められ自滅の道を辿るしかない人々の日々の虚しさ、身を焼き付くし滅ぼす、その苛烈さを想ってみるべきではないか。「智体悲有」という言葉がある。智恵が主体になって慈悲の働きを起こさせるという意味らしい。文学にしろ精神分析にしろ、究極にはめざすはそれでしかない! 方法論は異なるにしても。

    ・追加:ゾラに関して。女性の母性ということについて非常に強い思い入れがあるんだとか。また、「多産」はゾラのオブセッシンだとも。やはりビオンのreverie(夢想)にも似て、無いものねだり、つまり己の欠如の埋め合わせといった印象拭えず。それが彼の一生涯の核心なるものだとしたら。確かに腑に落ちる。ああ、そうなんだ。だから貴方は貴方になったのねと言えるのではないか。やはりこの踏ん張りは凄い!

    もう一つ、気になることが。「ゾラの視線は、映画のカメラのレンズのように、対象をずうっと追っていくから、それをその動きにしたがって即物的に記す。ゾラの描写は平面的で単調な印象となる。文章の遊びの感覚が乏しい。」こうした批判は、臨床例の記述の際にも当て嵌まりそうだ。ギクッとした!筋立てを優先すればこうなる外はない。自然主義の「主観性の排除」というわけか。確かにゾラのどの本を読んでも一応筋を追って結末に至るや決してもう一度読み返すことはない。滅多に文章に魅了されて味わうのにしばし立ち止まることもない。脈絡を読ませるという意味でなら、こうした記述的文体でいいわけで。ただやはりムージルとの対比で、敢えていうならばいえば、含蓄が乏しい。そうだとしたら。視覚に訴えるのと思考に訴えるのとの違いなのか?視覚的に消耗される商品としての文体と、思考の糧としての文体との違いか。いずれ棲み分けして行く運命だとしても。文学の大衆化、職業作家の台頭に先鞭をつけ、文壇での生き残りを賭けてだとしたら、ゾラのジャーナリストとしての鋭い嗅覚に注目したいわけで。ゾラは社会全体をもっと多様な階層の利害関係や衝突する空間、個人よりも集団や匿名の群衆が支配する空間と考えていた。それゆえにこそあらゆるトピックがゾラの耳目を引き付けたわけで。群衆が固有の力学に基づいて行動することをよく知っていたわけだから。
    文学の市場というものも熟知していたろうし、市場操作という意味で、新聞連載小説というのはなかなかの戦略だ。ロマン主義的な手法である想像力より観察や分析を重んじるという理念を掲げ、文学を刷新したというのも道理だ。ここらからゾラを経てイプソンなりドイツ表現主義文学へと波及した文学運動の流れを考えてみよう。

  • 2009/01/07 ゾラ、ムージル&カネッティ

    ゾラの己の才能に対する自信が凄いのだ。彼が17歳頃に友人に書き送った手紙のなかの文面、「ぼくは自分のうちになにものかを感じる。そして、そのなにものかが実際に存在するなら、早晩、それはきっと明るみに出るにちがいない。」まさに神に選ばれし者といった気概に満ちている。存るやもしれぬ「なにものか」、今は闇の向こうに姿を失っているとしても、いつしか必ずや己を訪なうことを信じている。幻視の人というべきか?現に顕現させんとすることへの内なる意欲は途方もなく大きい。懐疑が彼を躓せることはなかったとは!「私は見た、故に私はそれを知る者だ」という信念に裏付けられている?!さらにふと思う。このこととゾラの母親がしばしば神経性の発作を起こしたことと果たして関連するのだろうか?
    ローベルト・ムージルの場合も確かに母親がそう。彼らに共通する特徴は、女性の内面の心理描写への執拗さだが。ゾラはひ弱な体質で病的にまで神経質かつ鋭敏な感受性があり、とくに嗅覚が人一倍鋭かったらしいとか。母親のセクシャリティについてか?!つまりは無防備にそのまま子どもの眼に晒されてあったということか!おそらくはムージルの場合も同様ではなかったろうか。特にムージルの場合は、母親に複数の愛人がいた!その衝撃は彼らにとっての躓きの石。そしてそれ故に一生涯 ‘謎解き’へと誘われ運命づけられたとは言えまいか。
    エリアス・カネッティについて言えば、父親不在という点ではゾラに同じくだが、母親の気質が微妙に違う。かなり密着な母子関係ながら、そこには父親不在故に、敢えてセクシャリティは相互的に否認されている。そうであってもやはり近親相姦タブーが潜在しているのは明白。彼が精神分析に対して反発なり忌避感を覚えるのは当然。愛しすぎるが故の悲劇。彼は彼女との絆から解かれるために敢えて彼女が彼に求めたものに背を向けた。そうしながらも彼が得たものとは、即ち彼の文学とは、彼女に認められることにこそ意味があったわけで。
    但し、解られたいというのとは別。或る意味では彼女の理解不能の領域に敢えて逃げ込んだとも言えよう。自分の知に対する楽観には乏しい所以がある。永遠に許されざる者としての烙印を生きるかの如く。些か迷子の感あり。己自身の贖いだとしても。不知に悩まされている。私は知らない、そしてそれが私を苛立たせるといった感が否めない。無明!ビオンにも似て。敢えてルーツを断ち切ったような。私が見たもの、それが私の一部となった、その私を振り捨てて。私ではない、私の知らない私を生きたというわけか?それでなりたいものになったかな!?知りたいことを知ったかな?!辿り着いたもの、それは虚しくはなかったか?では、ゾラもムージルもと言えば。彼らが見たもの、その謎解きに終わりは無い。フロイトにとっての母親がそうであったように。何故、どうして?と問い続けた。答は有るとも無いともいえようが。そうすることで否応なしに母親との絆に絶えず繰り返し引き戻されることにはなったろう。
    そして母親が傷んだ人である以上、息子が為さねばならぬのはまさに代理贖罪。イエス・キリストがそうであったかしら?不明だが。‘表現者’とは根源的にこうした贖いの行為に携わるひとをいうのではないか。そう言えるとしたら。「精神分析」こそまさしくそれだ!そうでなければ!

  • 2008/12/25 TVドラマ 「風のガーデン」

    結縁力についての追記。昨日、半覚醒夢を見た。読書していた折だが、眼はエミール・ゾラを追い、耳は「中村明一」の虚無僧尺八の響きに満たされてたわけだが。意識があちこちとさ迷う。ある瞬間不意と一つのイメージが湧き立つ。<白髪の老女がにこやかに教室の中でこどもらに笑みを投げ掛けている。授業中か、こどもら(後ろ向き)は椅子に座ったまま。その傍らにこちら向きに彼女が立っている。>何かボランティアしてるらしい印象。年寄りでも出番がまだある?!そんな印象。自分が?まさかとは言わないにしても。さてどうかな?

    今朝、あっそうかと解ったことがある。白髪の老女とは「小島美子氏」だ。髪形がちょっと違うが。国立歴史民俗博物館名誉教授。昨日ゲットした中村明一のCDジャケット4枚と既に所有してあった1枚、いずれもが、彼女が監修者になってる。平成11年度には「薩慈」が文化庁芸術祭レコード部門優秀賞受賞、平成17年度には「三谷」が文化庁芸術祭受賞してる。背景にかなり彼女の肩入れが窺われる。11月に「全国郷土民俗大会セミナー」に参加した折、彼女が司会役だった。ちょっと印象に残った。彼を押すのは彼女だけではない。さまざまな分野の有識者が。彼を巡ってのこうした結縁の動向には感慨を覚える。虚無僧など河原乞食にも似て、サブカルチャーの世界の住人かと思ってた嫌いが私にはあるんだけど。これは凄い!日本人の秘めた底力だわ!この結縁の行方を見据えてゆこう。

    もう一つ。一週間前の木曜日だが、テレビドラマ「風のガーデン」の最終回だった。稀にみる秀逸な作品と言える。死んだのはすい臓癌の息子なのだが、それを看取った父親の医者役が俳優緒形拳。実際には先日亡くなったわけで、このドラマ作品が私たちに見せる彼の最後の姿。ああ惜しまれる。やはり録画したのを繰り返し見る度に涙した。亡父の看取りを偲んでは・・。悔いを胸のうちで反芻する。そのうち不意と或るひとつのイメージが浮かぶ。<大きな真っ白い石油ストーブ、赤々と燃えている。>何だろう!(焼却炉かしら!?)俳優中井貴一が娘の結婚式で(実はそれ真っ赤な嘘なんだけど)花嫁の父親として介添え役をする。それを生涯最良の日と回顧しながら、家庭を捨てたはずの彼は、放蕩息子よろしく赦されて家庭に舞い戻り、暖かく家族に包まれて死んでゆく。その彼は何から逃げ、何を得たのだったのか。今一つ突っ込みが物足りない。「お父さん、家庭っていいですねえ・・」と、彼が死の床で感慨を漏らす。じゃあ、あちこち不倫して不埒にも家庭をブチ壊してきた彼の生きざまはどう釈明できるの!?彼はいいとして。
    「やっぱり最後は家族よね!」っていうのは確かに異議なし!ではあるんだけど。ところで、この幻覚夢にどう慰められたらいいのかな!?真っ白い焼却炉のイメージを連想する。まあ言うならば色即是空・空即是色かな!さて、これからどういう展開となるやら・・

  • 2008/12/24 結縁力と夢想

    結縁の力とは、自分を取り巻く事象に対する主体の媒介性の有無に関係する。自らの感覚が取り込んだものが、己自身にとって媒介的であるのか、無媒介的なるものか。いずれとなり得るかは、何が決め手となるのだろう。ここにビオンのいうところの「夢想」との関連を見る。夢想とは、結縁を妊む行為なのだ。つまりはそれが生成成就するための契機を宿している。可能態がいつしか現実態に変換される、結縁が生きられるために。そんな時がひそかに醸成されている。それが人の心とは言えまいか。
    今ここを生きながらも、絶えず過去に遡り、かつ未来を仮想し、思考の糧なる想念の断片を寄せ集め、咀嚼し続ける。私が私として成るべくしてなったと言える筋道を模索しつつ。そこに運命の力即ち道理を信じられたらいい。己を過つことのないためにも、精神分析がその一つの道標となり得るだろうか?

  • 2008/12/23 自伝的自我<

    心理臨床家の資質として、何よりも「結縁力」が問われる。即ち、縁起を自在とする力。縁起とは、森羅万象の眼目である。物事が生じる、転回する、消滅する。いずれにしてもそれらの現象が何故にそして果たして何に起因しかつ帰着するのか。知を愛するとは、縁起に対して主体を唱導する志をいってはいないか。精神分析とはその先鋭的な一つの形と言っていいのではないか。無意識の流れに竿さすこと。無明に一筋の光を照らすこと。即ち、私という主体が私なるものが在ることを証しせんとして。

    主体を網羅する言葉が「自伝的自我」を骨格とする由縁がここにある。絶えず私なるものが紡がれてゆき、いつしか言語体系を成す。それが紛れもない私なるものの実態。縁起が真に意味を持つ場とはこれ以外ではない。私なるものが、生じる、転回する、消滅するとは、即ち私が私自身を想起させんとし、かつ私自身を忘却させんとする私の言語の営みなのだ。どこまでそれに自らが責任を担えるか、その呼びかけに実をもって応えんとする、それが私なるものの矜持ではなかろうか。

  • 2008/12/21 心理臨床という結縁<

    ふと思い付いた!精神分析での分析者と被分析者の関係を‘契約関係’といってきたのだが。これは正しくは‘結縁(けちえん)関係’というべきではないか。前者はいかにも、技能を売りものにする者即ちプロフェッショナルと、その技能を活用すべく求める者との間の、つまりは売り手と買い手との取引きにも似て、確かに或種のcommitmentなのだが。後者について言えば、結縁という以上、それを遥かに超える何かが問われる。むしろcommunionとでもいったような。そうならば、そこには義、実そして信といったものが期待され探求されずにはすまされまい。
    真に今頃になってという感がするが。30年近く臨床に携わり、そしてようやく悟ったこと。
    だが、それで腑に落ちる気がする。何故に自らを叩き台にして、足元を掘り下げることに専念するかが。
    つまりは否応なしに親との結縁に眼を注ぐことになるのだが。それをどこまで徹底操作するかで、自らの情緒・感受性の陶冶の如何が決まる。おそらくはそうだ。そこから総てが始まるんだ。つまりは私が生きて遭遇する私なるものとは、自らの生存に刻印された原初的結縁つまりは親がルーツであり、その後の誰かとの関わりはすべからくそれから派生した「反復そして変奏」だということ。ということは、私の命とは、私が私に成るために、ただ一途に懸命に生きているってことに。それを詰まらないものにするのか、嬉しいものにするのか、人生の味わいが自分次第で決まるわけだ。ああ、そうなんだ!あまりにも楽観過ぎるかなとも思えるが。
    信に辿り着くというのはそうでないはずはなかろう。精神分析の未来がそのようなものとしてあるとしたら、人との結縁に対して、それが誰であれ、より開かれてある自分になれそうじゃないか!当然のこと、より慎重に見極めることにもなるだろうが。

  • 2008/12/17 分析終了の余韻

    N.T.の分析がひとまず終了した。やれやれ、最期に決めが入った。今一つ鈍重な印象が否めなかったのだが。今日報告された夢がそれを理解するきっかけとなった。よくぞ粘ったと褒めてやりたい。分析家として相手次第では役に立つこともあるんだわと思う。やれやれと安堵もできない気分だけど。昨夜就寝前に頭に浮かんだ幻覚は、些か内心の動揺が露呈していた。<ヘアードライヤーの先の替えの部分がカチャと嵌まるかどうか不安がってる。>嵌まらなければ使えないわけで。電化製品というのはいつ故障するかわからないものなのは承知しているが。気分的に滅入る。買い替えればいいとわきまえているつもりでも。パソコンのときなどその最たるものだが。パニック、もうおしまいかあ!とまるで自分の消耗期限を思い知らされるようなのが実に嫌だ。それも大袈裟な!

    ・追記:夢の背景に、N.T.からこどもの出産後いずれ分析に復帰したいとの意向を伝えられているのだが、どうかな?無理では・・と半信半疑な私がいるということが挙げられるだろう。

    ・もう一つの幻覚:<タイの影絵芝居の中の一つみたいな、踊り子が逆三角形に斜めに細長い。下方にすぼんだ感じ。>

    ・連想は‘尻つぼみ’!呆れた。こんなに怯えてるのか。我ながら心外なと思う。それ自体にちょっぴりユーモアもあるかなと、それが救い!?心に映る自己イメージ。いよいよもってなかなかに描写力が着いてきたと言っていい。無意識とは本来無なるもの。そこに形を呼び出すと、何もない闇の向こうから何やらがやってくるみたいな。不可思議というか奇妙キテレツ!そこにあるはずもない道理を探し当てる。ああそうなんだあ!って思う。
    つまり暗号が解読されるみたいに。通じ合えないものが通じ合える。内なる自分と、それから外なる自分つまりは他者とも。呼応し合う。生き存えるかぎり不安は尽きない。ただ自分を見捨てない。付き合ってゆけると。そうした信が固められてゆく。ああ、それでいい!

  • 2008/12/13 想像力に手が足が

    M.N.に語ったこと。「想像力に手やら足やらが付いてきたわね」とは?心理臨床とは目鼻立ちの無いものに目鼻立ちを着けてゆくことだ。従って分析家が補助的に分析対象の目となり耳となり口となりは当然だが。更には手となり足となるとはどういうこと?その意味するところは即ち、それじゃなくてこれ、これをどうぞと示唆できること。そっちじゃなくてこっち、こちらへどうぞと誘導出来ること。手の無い人に手を添えて、掴むことを奨励し、足の動かない人には伴走者になる。
    そうしていつしか振り返れば、道なき道に道が付いてる。自分が歩んだ道が。迷子になってなぞいない。迷子にさせてなぞいない。それが私なるもの!という紛れもない手応え。忘却の闇に押し込めて片を付けたい私。そんなの私ではない!と頑強に、そうして私を消すことに執心する私とは違って、記憶の中に忘れられずに留めおかれる、そうした感覚のあれやこれや。私は私でいい、私は私でよかったと、絶えず自分に立ち還ってゆく。それこそが「自分が在る」という内実。そんな私に、そしてそんなあなたに、一緒になれるかな?!ってことが探求されているんだろう。

  • 2008/12/07 映画「学校」&「ウザーラ」

    今朝、奇妙な夢を見た。<教室があって、そこはどうやら試験の真っ只中らしい。私の前の座席に男が二人並んでいる。その左側の男の答案用紙を後ろの座席から私が覗いている。彼が書いてる答そのまんまを丸ごと自分の答案用紙に写している。自分にはさっぱり訳がわからない問題みたいだ。彼のを見て、エヘッー、さすがあ!と感心してる。外国語であるらしいが、どうも自分が慣れた英語とも違う。総てがたどたどしい限り。自分はただ考えなしに写し取ってるだけ。採点者がどうにか判読できればいいんだがと、些か投げやり。そのうち最後の設問の答は時間切れで、丸写しもかなわず。あまりにもいい加減。気持ちがざわつく。>  以上だが、なんでこんな夢見なくてはならんのか!誠に不可解。

    ・連想:大竹しのぶ主演の映画「学校」の中でボイラー技能者の国家資格試験の最中、彼女が他の男性らの手助けでカンニングする場面。昨日就寝前に読書していたのがエミール・ゾラの「制作」。男女の出逢いのなれそめの部分。お互いが惹きつけられるのだが、さてこの恋の駆け引きの行く末はどうなるやら。続きは今から読むのだが。かなり際どい。映画「学校」では、女の方が男との関係に終止符を打つ。彼の別居中の妻が仕事に行き詰まり自殺未遂を起こしたからで。「私は大丈夫だから、奥さんの傍にいてやって!」と、彼を押しやったわけで。せっかくの恋のほむらに水掛けて。大竹しのぶが嵌り役!いかにもいかにもって感じだが。それともどっか頼れる男がいるなら頼りたい思いは否定できないか。この揺らぎが実にいい。T.S.じゃあないけども、せっかく自分の未来をデッサンするべく手が動き始めたのに。一体いまさら誰任せにしたいと思っているのかしら!有り得ない!ということだろう。

    昨日録画してあった黒澤映画「デルス・ウザーラ」の或シーンが想起された。隊長と彼が探検中に原野で遭難しかけ、彼の機転で枯れ草を刈り取り、仮のテントを造り一夜を過ごし、命拾いした。そういえば、「あなたはな~にも知らないんだねぇ」と、さも愉快げに人を揶揄する男がいたのを思い出す。その彼に従えば、つまりはこうした危機的状況への対処、サバイバル能力が問われるわけで。ほんと自信満々ってわけじゃ毛頭ない。でも映画の中の大竹しのぶじゃないけど、「これまでなんとかやってきたんだから!私大丈夫よ!」と、泣いた後の顔をじゃぶじゃぶ洗って涙を拭き取るしかなかろう。えらいじゃない!と、感傷が一番嫌いな私としては、そういう彼女の負けん気に痛く共鳴する。勿論、油断は禁物だが・・

    ・追記:夢との関連。その契機の一端が判明。映画「ウザーラ」を改めて見直してたら、こんなシーンがあった。彼が森の中で人の足跡に気付き、中国人が居たと言い、兵隊らがそれを聞いて、なぜわかるのか?と、てんで真に受けようとしない。嘲り笑うのみ。そこで彼が言う。「分からない? これ見る。皆、子どもと同じ。何も見えない。一人山に住む。すぐ死ぬ。・・」
    これは衝撃だ。私自身に当て嵌め、グサッときた。さらにはナルホドナルホド、夢が実にそういうことだったのかと。いうなればメンタル・リハーサル。諸々の不安材料をあちこち記憶の引き出しを引っ掻きまわして、ちりぢりの縺れた糸屑を寄せ集め紡ぐみたいな。傷痕に包帯を巻いて手当てをするかのように。まるで蚕が糸を吐き出して身を纏うように。自分が自分を癒すとは、こういう心的操作をいうのか。それは消去とか否認の方向ではなく、明らかに免疫性を高める意図がある。
    つまりは不安への耐性。一種予防接種にも似て。毒を制するに毒を以てするわけか!?知らないで知ってる、知ってて知らない私を知るために。そして恐れずに怯まずに。精神的強靭さresilienceとはつまりはこのこと?

  • 2008/12/05 「フィギュア」特集番組

    先日テレビで「フィギュア」の特集していた。20代30代の男どもの熱狂。勿論ブームには仕掛け人はいるわけだが。かつてのプラモデルファンの少年たちがこの時流を作っていると知ってナルホド!私のまるで興味を引かないジャンルだ。フィギュアが昔の流し雛の系譜という捕らえ方はまずいいとして。‘恋愛感情のよりしろ’というのは問題だ。時間の川に流すんだとか。確かに言い得て妙なりだが。
    つまりは取っ替え引っ替えの消耗品。その果てにはモノに埋没するだけとか。我が身の厄を肩代わりしてくれる対象への感謝やら畏敬の念のかけらもないわけで。宗教心など影も形も失せてしまっている。形骸のみ。以て非なるものじゃないか。持仏と一緒になぞしていい筈もなかろう。賢しらげに語るナビゲーターの彼らに、まるで文化の担い手にでもなったような、ある種の不遜さが垣間見られ、横着な!と思わずにはいられなかった。女の子たちが熱中するネールアートもだが、手先の起用な日本人のモノ作りの粋が意外にもこうした仇花を咲かせてるわけか。この平和ボケ、或意味ではいい時代なんだろうが。
    だが戦後60余年を振り返り、「戦争を知らない」我等が同時代人を誇れない、何とも恥ずかしくて堪らないのだ。希望が感じられない。寂しい限りだ!逢いたい!誰か、共鳴しあえるって思える、そんな誰かに。いつか?!

  • 2008/12/03 つげ義春の日記

    日々の暮らしの中で埋没する想念の断片のあれこれ。漫画家つげ義春の日記を読んで何かしら感じ入るものがあった。私小説をよく読むんだそうだが。確かに人の内面の赤裸々な記述には嘘臭くないリアリティに触れられることの愉悦がある。探求する方向は間違ってはいないだろう。私もふと思い付いて雑事を書き記すことを始めた。誰の眼に触れるはずもないのに。妙な抵抗があるからかしら。変な夢を見た。
    <今朝の夢>:若い女性。漫画家志望らしい。年配の男、おそらくプロジュースする人。彼女に作品を見せてくれと言ってる。彼女は気乗りしないらしく、いつのまにか姿を消す。

    ・連想:昨夜就寝前に見たテレビの深夜番組「東京カワイイ」。原宿の帽子屋が取材されていて、帽子好きのマスターと店の若い帽子デザイナーたちなんだけど。そこのスタッフの一人の女性、何でもいいから作ってみろとマスターに2万円手渡され、作ったものを持ってゆくと、ふーんと言って、同じのを60個作ってみろと言われたんだとか。彼女にしてみればラッキー!ってわけだろうが。何故かアイデアを盗まれるような・・。妙に引っ掛かった。つげ義春みたいに、漫画作品は商品だから売れたらその後はいっさい関知いたしませんというほどには達観してない自分がいる。どないしたもんか?

PageTop